『誤植読本』(増補版)ノート
高橋輝次 編著
ちくま文庫
私事から書き起こして恐縮だが、筆者は45年ほど前、東京・市ヶ谷にあった日本エディタースクールに通っていた。
ある日、校正の授業でA4一枚のプリントが配られた。10か所の誤りがあるので校正せよとのことであった。既刊本の初校ゲラだったが、書名は覚えていない。
30人ほどいた受講生のなかで、筆者だけが「ヘ」の字の誤植を見つけた。ひらがなであるべき箇所にカタカナの「ヘ」が混じっていたのである。筆者はそれに気づいて〈ひらがな〉と赤を入れ、講師の先生にお褒めをいただいた。
カタカナの「ヘ」とひらがなの「へ」の違いは山の角度である。より尖っているのがカタカナで、ひらがなの方は角度がなだらかだ。この文章の「ヘ」と「へ」もちゃんと区別している。おわかりだろうか(note上では区別できないかも知れない)。
当時は活版印刷であったから、活字を組版から活字棚に戻すときに文選工が間違えたのが原因ではないかとのことであった。
筆者はWordで、FEPはATOKを使用している。ローマ字漢字入力モードでheとタイピングしてスペースキーを押すと、[ひらがな]か[カタカナ]の選択肢が示される。これはMicrosoft IMEでも同様である。
〈へ〉と〈ヘ〉――前者がひらがなで、後者がカタカナである。パソコン入力では、前後の文字から推測してくれるので、活版印刷の時のような間違いはないだろう。
ちなみにこの試験ではほかの誤植を見落とし、満点ではなかったのが残念であった。
この本の書名をみただけで、昔の失敗を思い出し、冷や汗が出るような気がする。それでも読んだ。怖いもの見たさの心理と同じだ。
内容は、著名な作家や学者、編集者など53人の校正あるいは校閲を巡る、いまだからいえる打ち明け話や表現へのこだわり、校正者への敬意とそのうらにある恨み節などなど、読者には面白く、出版関係者にとっては身につまされる話が満載のアンソロジーである。ほとんどが活版印刷のころの話だ。
「活字が完全無欠を要求されるようになったのはいつの頃からか。岩波書店が誤植一つに対し賞金を出すといったことがあるそうだ。その頃からか。けれど、もし誤りのまったくない書物があるとしたら、それはそれでこわいような、物神崇拝を産むようなものだとも思う。」(P38 森まゆみ)
――校正者の開き直りのようにも聞こえるが、その気持ちもよくわかる。
「同じトクトミ兄弟でも、兄の蘇峰は徳富と点あり、弟の蘆花は徳冨と点なし、それぐらいのことなら、たいがいの者がわきまえてはいる。」(P54 中山信如)
――兄弟で苗字の表記が違うこということは知っていたが、どちらが点あり(ウかんむり)なのかは覚えていなかった。兄弟だから同じだろうと思うのが普通であり、同じ原稿にこの兄弟のことが出てくると面倒このうえないことになる。
ちなみにこの兄弟の本名の字はウかんむりの方である。蘆花がワかんむりにこだわった理由について、私は寡聞にして知らない。
「つげ義春のシュールレアリスティックな漫画『ねじ式』は『まさか/こんな所に/メメクラゲが/いるとは/思わなかった』という主人公の独白から始まる。この『メメクラゲ』がじつは『××クラゲ』の誤植だったそうだ。不特定を意味する記号として『××』とネームを書いたのが、筆跡のせいか、『メメ』と拾われてしまったのである。」(P167 林哲夫)
――文庫本用本棚の隅にあった『ねじ式』(小学館文庫 1996年8月1日初版第7刷)の7ページをみるとたしかに「メメ」となっている。ご丁寧に同じページに2か所もある。1997年に読んだ時に、「メメクラゲ」とは何だろうと思ったが、調べることもせず読み飛ばしてしまっていた。
「やさしく書き正しく組まれても、読者が正当に理解してくれなければ全文が誤植同然だ。ひとりひとりの読者の頭まではどうにもならない。むしろ誤植を正し判読するほどの読者こそ頼もしい読者なのだと気づいた。一種のあきらめであろう。」(P222)
――これは佐藤春夫の文章だ。「読者が正当に理解してくれなければ全文が誤植同然だ」というのは作家の立場からの極論ではあろうが、校正という作業についての限界と諦念に満ちている。
「たとえば『トル』という文字を書いておくと、何でもトッてしまう。『サルトル』が『サルクレ』と誤植になっている場合、『クレ』の部分を『トル』と直すよう指示しておくと、取られてしまって『サル』になってしまう。これは『サルトルが猿になった話』として有名らしい(吉沢典子〝校正の笑い話〟「エディター」78・1)。(P269 紀田順一郎)
――これは、初校ゲラ段階での話だと推測する。そのまま刊行されたのでないと思うが、もし最終校正までやって『サル』のままであったら、それは編集者や校正者の初歩的なミスであろう。著者校をしなかったのであろうか。
校正指示が誤解されないように、このような場合は、「トル」の横に「サルトル」と明記しておくように筆者は習った。
このほか、身につまされる話が多く収められており、一時出版界に身を置いた者として実に興味深い内容が満載であった。
昨今のコンピューター製版では考えられないが、活版印刷の場合は、校正作業で字数が増えたり、減ったりと活字が動くと、版組みをやり直すことになり、ページ換えの箇所までそれが影響し、何ページにもわたる膨大な作業になる。それをなるべく減らすために、ほかで調整して行換えのところでその影響をとどめるようなことをしていたが、なかなかできずに印刷所に頭を下げに行ったこともある。こちらに責任があるのではないが……。
また、筆者にとって一番難しいのは自分の原稿の校正である。自分で書いているので、思い込みというか、目で読まずに頭で読んでいるのでサッと読み飛ばしてしまい、誤字を見落とすことがしばしばある。
それを他の人が指摘をしてくれるのであればいいのだが、「校正をやっていた人が書いた原稿だし、著者校もしているから」と、出版社の校正者のチェックが甘くなるのであろうか。結局は自分のせいなのだが……。
最近は誤植の質も変わったように思う。キーの打ち間違いは論外だが、アプリによってはご親切に予測変換機能があるので、同音異義語の選び間違いなどが頻発する。しかし、活字時代とは違って、簡単に修正できるし、版面の修正も簡単なので実に楽になった。
誤植は出版につきものであって、言い訳めくが避けることのできないものだ。さらに校正や校閲作業の難しさ、奥深さについて、この本を読んだ方はよく理解していただけると思う。
最後に一言。この原稿にどうか誤植がありませんように……。見つけた方には賞金を……出しません。
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