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『老いの深み』ノート

黒井千次著
中公新書

 黒井千次は1932年生まれの作家で、いま御年92歳である。

 帯には、「必要以上に若く元気でいたいと思わない。かといって慌てて店仕舞いする気もない――」(本文P135より)とある。作者は90歳の大台を超えた自分から見える風景をさまざまな出来事を通して描いている。

 作者はこれまで読売新聞夕刊に月に1回、〝現代の老い〟についての文章を書いて20年になるそうだ。書きはじめたのは73歳の頃で、この『老いの深み』は、『老いのかたち』、『老いの味わい』、『老いのゆくえ』に続くシリーズ4冊目である。

 筆者自身も70歳を超え、年相応の病にも罹り、どうにか生き長らえてまだ仕事をしているが、最近、少しずつ社会や周囲の風景が変わって見えるようになってきたことを感じている。ほかの人がどのように老いに向きあっているのか興味があったので、書名に惹かれて手に取った。

 文章は平明でありながら含蓄がある。あるときは頷きながら、あるときは著者の言わんとするところを読み解き、そうなのかと得心しながら読んだ。

 たまたまこの原稿を書きはじめた8月5日の毎日新聞(4版)夕刊の文化欄に、著者のインタビューが載っていたのを見つけた。
 黒井千次は、90歳代に入ったことの感想として、「新しい世界に足探りで入っていくような感じですね。それまで経験したことがないことが次々起こっていくわけです。老いの持っている深さと広さ、それは、老いの豊かさにつながっていると思うんです」と答えている。〈手探り〉でなく〈足探り〉というのが、杖を使うことのある著者の現在をよく表している。

 文章をいくつか拾い出してみる。

 著者が住んでいる町の後期高齢者医療健康審査に行ったときに聞かれたこと――看護師から、「御存じのヤサイの名前を幾つでもあげて下さい」と不意打ちのような質問をされ、著者はハイと返事をして、次々と野菜の名を口から出まかせにあげ続けた。看護師に怒ったような声で「モウ、イイデス」と言われたそうだ。(P67)
 野菜の名前をあげるのが、認知症かどうか確かめる質問になるのかどうか分からないが、そんな質問をされることがあるのかと驚いた反面、それを受けて立とうという著者の心意気が年齢を感じさせない。枯れた境地とは程遠い。

 著者の友人が、同様な審査の時に、行くたびに、「イギリスの首都はどこですか」と聞かれるのに閉口しているという。笑えるようで笑えない話だ。野菜の名前はともかく、イギリスの首都を聞いて何が分かるのだろう。そもそも海外に興味がなく、元から首都など知る必要もない人もいるだろう。
 筆者のように、野菜の名前を聞かれていくつあげられるかわからない人間もいる。それは野菜ではないと言われるかもしれない。幾つあげたら合格なのだろう。

 著者の自宅の風呂釜が壊れて、交換することになったが、建て替えたときには新式の風呂釜を設置したのに、と思いながら、「老いているのは自分だけではないのだ」と気づき、「自分だけが歳をとって老いてしまったように感じるのはいささか独断的であり、僭越でもあったのではないか」と反省し、「みんなが同じように老いへの道を歩んでいるのだ」ということを著者は発見する。(P118)

 筆者が高校の同窓会で久しぶりに会った部活の後輩に、「先輩!」と声をかけられて、名前を聞いてようやく誰かが分かった。あまりの変貌ぶりに、「お前に先輩と言われたくない」と冗談めかして返したが、お互い年齢を重ねていることを笑い合った。皆同じように歳をとっていることに気づかされた。

 著者が散歩中に、自分より若いと思われる老女が先を歩いている。その時、「よし、とイタヅラゴコロ芽生えた。彼女がこの道から姿を消すまでに、必ず追い越してやろう――と」。(P151)
 前を歩く老女との距離を縮めようと歩く速度を少しあげたが、なかなか距離が縮まらない。そのうち道を曲がったのか姿が見えなくなる。そして、「追い抜かれこそしなかったが、それは老女が前を歩いていたからだった」とユーモアをまじえて書いている。(P153)

 筆者も通勤時に駅まで約1.2キロを15分程度で歩くのだが、ある日、気を抜いたつもりはなかったが、予定の電車に遅れそうになったことがある。時間に余裕をもって出たはずなのに……歩幅が狭くなったのか、ピッチが遅くなったのか。
 たしかに最近、若者に抜かれていくことが多くなった。自分では年齢の割には歩くのが速いと思っていたにもかかわらず、だ。
 ある朝、抜かれた若者についていこうとピッチをあげ、歩幅も意識的に広げた。それでもなかなか抜き去るまでにはいかない。若者はさらにスピードをあげたようにも思える。結局、駅に着くまでに抜き返すことはできなかった。われながら子どもっぽい振る舞いだと思ったが、その代償は吹き出す汗であった。

「朝食後に飲む錠剤を落とすと、小さな円盤状の薬は、落下して床の上を転がり、あちこちに隠れてしまう。」(P164)

 筆者も同じように朝食後に錠剤をいくつか服用しているが、ちょっと油断すると手から落ちていく。転がった方向がわかっているので床を探すが、なかなか見つからない。大抵はあらぬ方向で見つかるが、どういう加減かほとんど錠剤が立っているのだ。立って転がって行ったということはわかるが、なぜ立つのかがよくわからない。

 もう一つ印象深い文章を――。
「八十代の老いが持つ詩的世界は歳月とともに次第に変化し、いつか九十代の散文が抱える世界へと変化していくのではないだろうか」。(P215)
 詩と散文を単純に対立するものとして考えるとか、経年変化のシルシという問題ではなく、〈老い〉は単なる時間の量的表現ではなく、人が生き続ける姿勢そのものの質的表現であると著者はいう。
 筆者はまだ七十代前半なので、実感としてのこの境地は分からない。それをこの心身で味わってみたいものだ。何歳まで生きるかは分からないけれど……。

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