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『わたしの渡世日記』(上・下)ノート

高峰秀子
文春文庫


 表紙の絵の作者は梅原龍三郎だ。この本には木下恵介、黒澤明、今井正など映画監督、そして多くの俳優たちだけでなく、一時養父となる東海林太郎、谷崎潤一郎、太宰治、梅原龍三郎、志賀直哉、新村出(広辞苑の編集者)など分野の異なる著名な作家や学者などとの出会いが多く出てくる。

 著者は5歳の頃から子役としていきなり大人の世界に飛び込まされて、数多くの映画に出演するようになり、小学校に入学したもののろくに通えず、本を友としていろんな事を学んできた。女優という立場上、多くの一流の人たちとの出会いに恵まれ、その交流の中で学んだことが大きいと高峰秀子は言う。
 さらに、自分の大恩人として、指田先生という小学校の男性担任教師の存在をあげている。何度かの家庭訪問で、家庭の事情がわかったのか、志げと秀子が京都の撮影所に行ったり、地方ロケで学校を休まざるを得ないときに、必ず2、3冊の子供の雑誌を持って駅まで来てくれたそうだ。その色刷りの雑誌を胸に抱きしめて心底嬉しかったという。指田先生のおかげで自分があやうく〝文盲〟を免れたことを思うとき、感謝とか恩人とか、そんな言葉ではとても表現できない、胸に溢れてくる得体の知れない感情に、思わず、指田先生は神様であったと手を合わせたくなると最大限の感謝を捧げている。

 高峰秀子は1924(大正13)年に函館市に生まれた。4歳の時、実母の死を契機に父親の妹の志げのたっての願いで、市治と志げ夫婦の養女として迎えられ、函館から東京に移り住んだ。
1929(昭和4)年9月のある日のこと。当時住んでいた借家の家主の友人で俳優の野寺正一の案内で、養父の市治が秀子を連れて、松竹蒲田撮影所の見学に行った。

 その日、撮影所ではたまたま野村芳亭監督の『母』という映画の子役のオーディションが行われており、最初はその光景を眺めていたが、何を思ったか市治は秀子を連れて並んでいる子どもたちの列に並ばせたのである。秀子の前まで来ると監督はスタッフと二言三言話をしていたが、そこで解散になった。
 その日が女優高峰秀子誕生の日であった。60人もの子供の中から、飛び込みで参加した秀子が選ばれたのである。川田芳子主演のその映画はロングランの大ヒットとなり、アンコール上映もなされ、高峰秀子は天才子役と呼ばれた。それからは数々の映画に出演し、小学校にもろくに通えないまま、女優稼業を続けていくのである。

 養父の市治は無声映画の活動写真弁士を職業にしており、養母の志げも女活弁士であった。その志げの芸名が高峰秀子で、秀子はデビューにあたって養母の芸名をもらったのだ。
 当時の子役としての秀子の月給は35円。大学での初任給が50円だったというから、「マセたガキの35円は悪い月給ではない」と自分で書いている。また子役時代の自分を、監督の言うセリフをオウム返しに喋っていた、言ってみれば〝猿回しの猿〟であったとも書いている。

 養母の志げは自分の夢をわが子に託すように、秀子にかかりきりとなり、その後、秀子が成人して大女優として成長しても、志げは娘のあらゆる面に干渉し続けた。秀子の稼ぐ金も自分の使い放題で、秀子は養母とのあいだに大きなわだかまりを抱えたままで、それはお互いの晩年まで続くのである。

 秀子は、唯一志げに感謝していることとして、乱杭歯になるところを幼い子に情け容赦もなく、歯医者で乳歯を抜いてもらった事だという。たとえそれが〝金のなる木〟のためであったにせよ、歯に関する限り、「母が私にしてくれたことの大傑作」であったと、今でも養母に感謝をしていると書いている。

 高峰秀子は女優のほか、エッセイストという肩書を持っている。
 この本を読むと、自分のことを揶揄したり突き放して書き、まわりの人間は人一倍の好奇心をもって観察し、どんな有名人であろうとも遠慮せず的確な描写をしているのが面白く、文章もなよなよせず骨太さを感じる。まさに書名のように「渡世日記」にふさわしい文体である。

 高峰秀子は5歳の頃から子役として鍛えられたからか、映画出演で出会った名監督たちの人間観察眼を学んだのか、名だたる俳優との多くの共演などで身についたものか、人物の内面観察が面白く、最初に掲げた一流の人たちの人物像が生き生きと描かれている。そういう人たちが、幼いあるいはまだ少女ともいうべき時代から大人になった秀子に対しても、飾り気なく自由気ままに晒す生の人間性を彼女は鋭く見つめている。

 高峰秀子は2010年12月に86歳で亡くなった。
 この本は女優・高峰秀子の一代記ではあるが、戦前から戦後を通じた演じる側から見た日本映画史になっており、興味深い。

『私の渡世日記』は、昭和50年から約半年にわたって週刊朝日に連載された。
 この年、筆者は社会人1年生になったばかりであるが、何故かこの頃週刊朝日を愛読しており、このエッセイも読んでいた。私は、本はもちろん、雑誌類もなかなか棄てきれなかったが、最後の引っ越しの際に、「朝日ジャーナル」や「週刊朝日」、「文藝春秋」や「ダ・カーポ」(創刊号は保存している)など大量の雑誌を泣く泣く廃棄した。
 およそ半世紀ぶりに、この本に書店で出会ったのが不思議といえば不思議だ。

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