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『天才の栄光と挫折――数学者列伝』ノート

藤原正彦著
文春文庫

 数学者である著者が、アイザック・ニュートン(英国)をはじめ、関孝和(日本)、エヴァリス・ガロワ(フランス)、ウィリアム・ハミルトン(アイルランド)、ソーニャ・コワレフスカヤ(ロシア)、シュニヴァーサ・ラマヌジャン(インド)、アラン・チューリング(英国)、ヘルマン・ワイル(米国)、アンドリュー・ワイルズ(英国)という、天才といわれた9人の数学者の縁の地にまで足を運び、その人生を辿ったノンフィクションである。

 1642年12月25日――筆者がこの原稿を書き始めた日が12月25日で、偶然とはいえその符合にちょっと驚いた――に生まれたニュートンは万有引力の法則を発見したことで、世界で一番有名な物理学者だが、彼は天文学者であり、哲学者であり、キリスト教神学者でもあった。また錬金術にも長年取り憑かれていた。しかし何よりも数学者としての高名を轟かせたのは、44歳の時に著した『プリンキピア』(自然哲学の数学的原理)である。この著書において、ニュートンは微積分学、力学、天文学のそれぞれ独立した分野の諸成果を、完全無欠な有機体として統一したのである。
 ニュートンは、錬金術の研究と並行して、聖書を精力的に研究していた。信心深いニュートンにとって、自然や宇宙は数学の言葉で書かれた聖書でもあった。そして神の御業を知ることは神に栄光を加えることと信じて研究に励んだ。言い換えれば神の証明のために数学や自然科学などを研究したともいえる。
 趣味もなく、友人もほとんどおらず、研究一筋できたニュートンは50代になって成人病や精神不調に悩まされたが、それらを克服した彼は53歳の時に学究生活を離れ、3年後には造幣局長官となった。また60歳で王立協会長に選ばれ、84歳に死去するまで、この二つの地位を保ち、英国王室や国民、線ヨーロッパから尊敬され、平穏な晩年を送った。

 ニュートンの次は、唯一の日本人として江戸時代の和算の最高峰である関孝和が取り上げられている。生年は1637年説と1642年説そのほかの説があり定説はない。
 わが国の数学の起源は6世紀に百済から仏教とともに暦が伝わった頃まで遡る。奈良時代には、暦や租税、建築土木における必要性から当時の官吏養成学校で正式に数学が科目となった。「九章算術」という教科書があり、九九をはじめとして加減乗除を学んでいたのには驚いた。また複雑な計算は〝算木〟という道具を用いていた。筆者が昔使っていた計算尺のようなものかと想像していたが、調べてみるとまったく違うものであった。

 またキリスト教の布教のためにわが国を訪れた宣教師たちは西洋の数学も持ち込んできた。フランシスコ・ザビエルは、「日本人はどんな異教徒より理性の声に従順です。日本に来る宣教師は、日本人の浴びせる無数の質問に答えるだけの学識が必要です……」とローマのイエズス会創設者の一人であるイグナチウス・デ・ロヨラに書き送っている。それに従って派遣された宣教師のスピノラは1604年から7年間、京都の天主堂で天文学や平方根や立方根の求め方、ユークリッド幾何学の初歩などの数学を教えていた。その彼は、故国への手紙に、数学は大名たちと打ち解けるのに役立つ、とか布教に最も必要なのは、日本人に尊敬されることで、それに数学が役に立つと書いている。

 関孝和の最大の業績は、ライプニッツの行列式より高度な行列式をライプニッツよりも早く発見したことだと著者は書いている(筆者はまったく理解していない)。また独自に編み出した微積分の計算を応用して円周率を正確に下11桁まで正確に求めたりもしている。また〝関流〟(和算の流派の一つ)は優秀な後継者を輩出しており、門下で幕府の勘定方や天文方になった者もいた。しかし、関孝和の在世中は、弟子も少なく、改暦についてライバルの渋川春海との争いに敗れ、失意の20数年を送った。〝算聖〟と尊崇されたのは死後30年も経ってからのことだった。

 この本で取り上げられた中で一番型破りな数学者はシュリニヴァーサ・ラマヌジャンだ。1887年に南インドで生まれている。筆者はAmazonプライムで、『奇蹟がくれた数式』というこの数学者の伝記映画を観たことがある。
 ラマヌジャンにとってはジョージ・カーという英国の数学者が著した『純粋数学要覧』という本に15歳の時に出会ったことが大きな転機になる。この本には大学初年級までに習う6千近い定理がほとんど証明なしに並べられているだけだったが、ラマヌジャンはそれらの定理を自らの方法で証明していった。その勉強がのちにケンブリッジ大学のハーディに見いだされる契機となった〝ノートブック〟の元となった。
 その〝ノートブック〟に書かれていた3,245個の公式は、その後、複数の数学者の努力によって証明がなされたが、いまだそれらの公式の持つ意義だけではなく数学における位置付けや応用などについてはいまだ未解明が多い。

 ハーディたちが彼にその公式はどのように考え出したのかと訊いても、帰ってくる答えは決まって、「自然に答えが浮かんだ」とか「夢の中でナーマギリ女神(ヒンドゥー教ヴィシュヌ派の神の一つ)が教えてくれた」というものだった。
 しかしハーディは、彼について、我々数学者と同様に帰納と類比、例証や計算などがあったはずで、ただこれらの鋭さや組み合わせの自由度が極端に高かったのではないか。さらに厳密性や余計な知識から解放されていたことも、彼の発想を自由にしたのではないかと考えていた。

 彼の家庭は貧しかったが、親はバラモンの教えに則った教育をし、極端な菜食主義をおしつけた。ハーディから招かれての渡英の後、郷里に置いてきた妻と母親との確執や孤独、寒いケンブリッジの気候と菜食主義のための栄養不足により32歳で亡くなった。

 このハーディ教授の教え子がアラン・チューリングである。今のノイマン型コンピュータの理論的原型といえるチューリング・マシンという四則の演算を含むありとあらゆる論理的手続きを実行できる想像上の機械を考えた。
 彼はドイツが使っていた「エニグマ(謎)」という暗号方式を解読するため政府暗号学校に集められた数学者の一人で、エニグマの解読を進めていたポーランドの数学者たちの成果を活かして、ついにこれを解読した。それによりUボートの行動を詳細につかみ、その脅威を取り除いて、英国の対独戦の戦局の転換を成し遂げたのである。
 その後、ドイツが開発したエニグマの後継の暗号機であるローレンツ暗号機はエニグマを更に複雑にしたものだったが、それを解読するためにチューリングは真空管1,500個からなるコロッサス(Colossus/巨大な彫像という意味)という世界初のコンピュータを作り上げた。1943年のことである。これは軍用であったため、その存在は公表されず、アメリカが開発したエニアック(1946年完成)が長い間、世界最初のコンピュータとされていた。
 そのような輝かしい成果をあげたチューリングは、ふとしたことで自分が同性愛であることを告白して逮捕され、強制的なホルモン治療を受けることになった。当時、英国では同性愛は犯罪だったのである。彼はのちにうつ病になり、1954年、41歳の時に青酸カリで自殺した。

 そのほか、350年にわたって難問として残っていた「フェルマーの最終定理」をついに証明したアンドリュー・ワイルズなど錚々たる天才の物語は実に面白い。特筆すべきは、ワイルズの証明に日本の数学者、志村五郎と谷山豊の楕円曲線論に属する「谷山=志村予想」が大きく貢献していることだ。
 関連図書として、サイモン・シンの『フェルマーの最終定理』(新潮社刊)やNHKの『笑わない数学』(同名のTV番組の内容を本にしたもの)などがあり、この定理の証明に格闘し、破れた数学者たちのことがより詳しく描かれており面白い。

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