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『ワイマールの落日』ノート

加瀬俊一
文藝春秋刊

 著者の加瀬俊一は、元外交官でドイツ大使館に勤務した経験があり、第一次世界大戦からナチス政権誕生までのドイツを中心に、著者自身の目で見た当時の生々しい出来事を詳細にわたって書き留めている。著者はヒンデンブルク元帥やヒトラー総統などとも面会している。

 1914年6月末のサラエボの悲劇――オーストリア・ハンガリー国の皇太子夫妻がセルビアの青年によって暗殺された――が導火線となり、世界中を巻き込む第一次世界大戦となって、1918年まで約4年半の間、計25か国が参加してヨーロッパを主戦場として戦われた。世界の主要な強国のほとんどの国を巻き込んだ戦争であった。ちなみにアドルフ・ヒトラーはこの戦争に志願して一兵卒として銃をとっている。

 大戦末期の1918年11月9日に、その横暴さによって欧州の悪魔と呼ばれたホーヘンツォレルン家の専制王朝が崩壊し、カイザー在位30年に及んだウィルヘルム2世はオランダに亡命したところからこの本は書き起こされている。

 そして第一次世界大戦後、当時もっとも民主的憲法といわれたワイマール憲法を国づくりの基礎としたにもかかわらず、わずか14年足らずで終わり、ナチスの台頭を許したワイマール共和国の興亡を、著者は出来事を詳細になぞることで分析している。当時乱立していた政党、なかでもリベラル勢力が、ナチスを過小評価し党利党略に終始したことがヒトラーの出現を促したとも述べている。

 某副総理が平成25年、ワイマール共和国における憲法改正――改正されたのではなく実質的に無効化されたのだが――が、国民の納得の上でさも静穏裡に行われたような印象を与える発言をした。この発言はわが国の憲法の改正の動きに影響を与え、のちに某副総理は発言の一部を撤回した。

 事実は、ナチスは決して合法的に政権を奪取したのではなく、反対派を容赦なくテロや殺人などの暴力手段で排除し、プロパガンダによって政権を奪取したのである。そしてヒトラーは授権法(全権委任法。正式な名称は、「国民および国家の困難を除去するための法律」)を制定し、ワイマール憲法を形骸化してしまい、ワイマール共和国は崩壊していく(詳細は後述する)。

 第一次大戦敗戦後のドイツ連邦は混乱の極みであった。特にミュンヘンは数か月の間に王制が革命で倒され、社会主義が主導権を握ったと思えばソ連からの工作で共産主義に変わり、それがまた無政府状態となり、最後は義勇軍という名の暴力組織による反革命が起きるのである。著者は、この義勇軍はナチス台頭の予告者だったと書いている。

 当時のミュンヘンの中産階級の生活意識には〝フェルキッシュ〟というドイツ語で表される民族の優越感を基盤とした強烈なナショナリズムがあったが、その裏には反ユダヤ感情があり、ヒトラーにとって親和性が高く、話し相手には困らなかった。ミュンヘンのビアホールはどこも談論風発の雰囲気があって、定収入もなく貧乏な画家であったヒトラーが誰彼を捕まえて話しかけても自由で、持論を滔々と話すヒトラーに共感する者が増えてきた。ヒトラーは初めて社会に受け入れられる環境に自分を置くことができたのである

 当時、ミュンヘンは大小のさまざまな政治信条を抱えた政党が乱立し、混乱していた。そこで一旗揚げようとしてヒトラーは、大政党に入党しても下積みになるだけと判断し、反ユダヤ主義、反資本主義を掲げる40名足らずのドイツ労働者党(DAP)に入党した。そしてヒトラーはその弁舌の巧みさで、わずかな期間で執行委員に選ばれ、激烈な演説が大衆に受け入れられて、次第に頭角を現してくる。

 第一次大戦が終結した翌年の1919年6月28日ヴェルサイユ講和条約が結ばれ、7月13日、ワイマールで開催された国民議会で新たなドイツ憲法として制定されたのがワイマール憲法である。だが、ドイツ国民はそれを屈辱条約とし、講和条約を結んだワイマール政府を憎んだ。
 ワイマール憲法の下で国民の直接選挙で選ばれる大統領制と議会制が実現し、ドイツ帝国の古い体制を解体し、領土や植民地、軍備の大幅削減をしたが、一方で敗戦国としての多額な賠償金を課せられるという重く大きな課題をワイマール共和国は抱えることとなった。

 共和国は選挙によって選ばれた社会民主党を中心とした連立内閣が続いた。
 新憲法にしたがって実施された選挙で社会民主党のエーベルトが臨時大統領に選出された。社会民主党は、社会主義革命を目指したスパルタクス団の蜂起を鎮圧し穏健な社会改良政策を進めようとした。しかし、ヴェルサイユ体制での賠償金など過酷な負担を強いられた上に、想像を絶するインフレで経済や国民生活は疲弊した。
 これに乗じて、反ヴェルサイユ体制を訴える国家主義運動・ナチズムが台頭した。このヴェルサイユ条約がなかったら、ヒトラーは生まれなかっただろうといわれる由縁である。

 1920年3月、ドイツ労働者党は国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)と改称し、21年7月、ヒトラーは党首となった。しかしこの頃のヒトラーは、あまたいる極右活動家の一人に過ぎなかった。
 1923年11月、ヒトラーはルーデンドルフらとミュンヘン一揆(クーデター未遂事件)を起こしたが、半日あまりで鎮圧され、ヒトラーたちは逮捕された。その獄中で書いたのが『わが闘争(マインカンプ)』である。ナチ党はヴェルサイユ条約破棄、ユダヤ人・共産主義排除などの闘争目標を掲げ、党勢を急速に拡大した。

 1933年1月30日、ヒンデンブルク大統領は、国民的支持を受けたヒトラーを首相に任命した。ヒトラーが政権を掌握して始まったナチス革命(国家社会主義革命)によってワイマール憲法は実質的に廃止される。同年3月23日に成立した「授権法(全権委任法)」は大統領と議会を形骸化し、政府に幅広い法律制定権を与え、ヒトラー独裁の基礎をつくりあげた。こうしてヒトラー政権は,ワイマール憲法を正式に廃止することなく、ナチスの独裁体制を成立させた。それによってワイマール憲法は国家の基本法としての実質的意味を失った。
 以後、ヒトラー政権は、議会制度、言論の自由などを奪い、ファシズム態勢を固めた。さらに1935年8月19日には国民投票を行い、86・4%の支持を得て、国家や法の上に立つ指導者として大統領と首相の地位を統合し、政治や軍事全てを統括する総統(フューラー)となった。そして自国の生存圏の拡張を掲げて近隣諸国への侵略を開始し、1939年の第二次世界大戦の要因を作ったのである。

 ちなみに、ナチズムの創始者はヒトラーではない。
 当時、ミュンヘンにはトゥーレという反ユダヤ・反共秘密結社があり、ディートリッヒ・エッカート(ナチズムの創始者。ヒトラーに大きな影響を与えた)、ルドルフ・ヘス(後の副総統)、アルフレート・ローゼンブルグ(ナチス思想の確立者。『二十世紀の神話』の著者)などがメンバーのオカルト(超能力)的神秘集団だった。そしてその紋章がハーケンクロイツ(鉤十字)で、会員は「ハイル」と言って挨拶をしていた。

 著者はこのように書いている。
「ドイツ民族は素質が優秀であって、文化的水準も極めて高い。カントやゲーテやベートーヴェンやビスマルクを生んだ国民なのである。それなのに、どうしてヒトラーに心酔しナチスに共鳴して、狂暴な破壊と無残な殺戮を行ったのであろうか。一時の乱心沙汰といえばそれまでだが、それでは説明がつくまい」――その答えはこの本にある。

 さらに、著者はあとがきにこのように書いている。
「日本通のドイツ人でかつてSS(親衛隊・ナチ党の私兵)将校であった神父は、ドイツ民族が何故にナチスに帰依して狂気集団になったのか、いまだによくわからない、と言いつつ、彼の観るところでは、宗教家が微力すぎたからだと考える、と述べている。」
 続けて著者は、その例として、のちにナチスの本拠地となったバイエルンは、伝統的にカトリック勢力が強大だったにも拘らず、ナチスに支配されてしまったのは、彼らの反共意識が強く、またナチスの愛国主義的宣伝に乗ぜられたところに根本的原因がある、と書いている。
 
 この本は、1978年3月11日にある先輩からいただいた。45年以上前、社会人になって数年後のことだ。その先輩からは、「この本を読め」とだけ言われて何度も読み返した。
 第一次世界大戦を経てワイマールの時代にナチスの台頭を許し、第二次世界大戦にまで至った経過をよく勉強しろとの趣旨だったのか……。いまになってようやく、この本を読めと言われた意味が分かるような気がする。

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