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野ラーメン《Section 2》


ノラと最初に出会ったのは、三月半ば過ぎの暖かい日だった。皆が無造作に菜の花と呼んでいるセイヨウカラシナの黄色い花が咲き始めていた。

一か月ぐらいして携帯に公衆電話から着信があった。ノラは、まだ携帯を作っていないと話していた。だからダイヤは自分からノラに連絡する手段を持たなかった。保険会社の営業所の所在地は聞かされていたが、乗り込むほどの重要な用などない。

「あー、流香やけど。久しぶり。今日の夕方忙しい? また飲みに行こ」

ノラは美しくて魅力的かもしれなかったが、恋愛感情が生じることはない。前回別れ際に、お互い酩酊してはいたが、自分は、金銭を援助してくれる男なら誰とでも寝る女だと言い放ったことが決定的な理由だ。

それに、そのころダイヤは叔父やその奥さんなど、世話になっている大人たちに早く身を固めろと圧力をかけられていた。二人の子持ちで、援助交際常習者のノラに深入りする気はなかった。

ノラに関する記述は、ここに書いている場面の時点では、はっきりしていなかったことでも、その後の十年に及ぶ付き合いで知ったことが盛り込まれている。ダイヤは、ノラと十年も腐れ縁だったのだ。最後の方の三年ぐらいは疎遠だったのだが、たまに駅などで偶然に会うことがあった。

その日、ノラの誘いは断ろうと思ったのだが、仕事関係で煮詰まっていて、酒を浴びるほど飲んでみたい気分だった。十年前に東西冷戦が完全に終結したが、東側諸国で作られていた「名車」を輸入しようと企んでいた。特に旧東ドイツのトラバンントを輸入して、阪神ファンの旧車愛好家数名に売りつけようとしていたのだが、排ガス規制で引っかかっていた。

ノラがダイヤの返事を待たずに畳みかけてくる。

「ホヤって食べたことある? ホヤとか、北の海の海鮮を出す店が十三の東口側にオープンしたんやけど、そこへ行かへん?」

「ホヤはあんまり食べたくもないけど、北国の日本酒が飲みたいなあ」

というわけで、ノラとの二回目の「密会」が始まった。

ダイヤにとって、七歳も年上のシングルマザーとのデートは友達や身内に進んで話せることではなかったが、厳密たる密会ではなかった。ノラが最初に会ったときに話した内容が真実であれば、彼女にとっても厳密たる密会ではないはずだった。

その和食店でも、ノラは二つの特殊能力を発揮した。まず、カウンターに並んで座った二人のところへ、ホール係の女性店員がドリンクを聞きにやってくると、「ミヤガワさん、お久しぶりです」と気安く声をかける。店員は驚いて、ノラの顔をマジマジと見つめる。でも結局思い出せないようで、首を傾げる。

ノラは、相手の反応をいかにも予想していたというふうに落ち着き払っていた。落ち着き払ったまま、「十年ぶりですものねえ。〇〇生命で一緒だった―」と静かに言って、「外交員のタナカです」と自分の苗字を名乗る。「ミヤガワさんは総務課でしたね。東淀川区淡路の営業所で…」

ミヤガワと呼ばれた店員は、しばらく思い出そうとしていたようだが、「タナカさん…でしたよね」と狐につままれたような表情で答えて、首を縦に小刻みに振って半信半疑の同意を示すのが精いっぱいの模様。

ダイヤは、ノラの苗字が「松野」だと聞いていたので、「タナカ」に違和感を覚えた。ただ、女性は姓を変えることがあるので、どちらかが旧姓なんだろうと思った。

ともかく、今はこの店でおそらくパートタイムの店員として働いている女性ミヤガワのもとへ野良の時間旅行者が十年前から突如ワープして来た。この時間旅行者は、体内にもワームホールを宿しており、これから異常なほどのペースで食物を掻き食らおうととする。おっと、その前にドリンクだ。

「へーっ、ここのお店、ホッピーも置いてるんや。ほしたら、黒生ホッピーください」とノラが目ざとく反応する。関東や東日本にお住いの人には意外だろうと思うが、大阪や関西にはホッピーを出す店が極めて少ない。

ミヤガワさんは、平穏な日々をタナカという名の野良時間旅行者にぶち壊された気分だったのか、ダイヤにはわからない。まあともかく、ノラがミヤガワさんに構いすぎるのは、時空の歪みをさらに拡大させて面倒なとになりそうな“悪寒”を覚えた。だから、ダイヤはミヤガワさんを呼びつけないように心掛けた。

当店は、ダイヤにとっても、五年余りの歳月を巻き戻す店だった。ダイヤは、二十三歳まで、大阪とは打って変わって緑豊かで美しい街、仙台で学生をしていた。

「今日はホヤの日なんやて」と店内の張り紙を見て、ノラが口走る。

「こりゃまた、ええタイミングで来たもんやな。ホヤは、仙台の大学に行ってたころ、たまに食べた。でも、学生には敷居の高い高級品や。毎回一口しか食べてないし、あんまり憶えてない」とダイヤが反応すると、カウンターの中の板前さんが「じゃあ、今日はたっぷり召し上がってください」と言葉をかけてくれる。

さっそくホヤの刺身が供されてくる。ひとくち口に入れ、味わってみる。ナマコのような香り。生臭くはない。ノラは「ひとくち」どころじゃなく「ひとかたまり」を口に入れていたようだが、ホヤに詳しいわけでもないのに「これ、養殖物やね」と口走る。

「お客さん、わかるんだ。そうなんです。この時期に出回っているのは養殖物なんです。この時期、天然物は漁獲量がまだ少ないのでね」と板さんが答えてくれる。

東北地方太平洋沖でマグニチュード9の地震が発生するのは、まだ十年先のことだ。この店は、関西では珍しい、三陸出身の料理人が開いた二店舗目だ。ダイヤには、ホヤのありがたさがよくわからなかった。ノラは確かに食通で、珍しい食べ物を探求したがっていたが、食材ではなく調理の仕方にうるさかった。適切に調理されていない食べ物をひどく毛嫌いしていた。

前回飲んだとき、フードファイターになってはどうかと勧めてみると、美味しくないものを何杯も食べることは絶対にできないと言う。確かに、多少の不出来には文句を言わず何でも美味しいと連発する人じゃないとフードバトラーは務まらない。

ノラがホヤの追加を頼もうとしなかった。ナマコのような香りを覚えたが、正確には鮮度が落ちたナマコを特徴づける軟体動物の痛みかけた臭い―あるいは釣りえさのゴカイやイソメに似た臭いを払拭できなかった。板さんと向き合った座り位置から余計なことを言うなよ…とダイヤは内心ひやひやしていた。話を逸らすために、「探偵がルカの天職だと思うぞ」と話題を振った。

「じゃあ、探偵事務所を紹介してよ。名探偵の一人や二人、知り合いにいるんやないの?」

「人の顔を絶対に忘れないというのは、探偵や捜査官に絶対に必要な能力や!」

「捜査官? ケーサツかよ? 元旦那がヤクザでも警官になれるんか?」

知らん、とダイヤは答えた。自分はこの世の肝心なことを何も知らないと彼は自覚している。だが、この野良女は、会った人の顔を忘れない。料理の美味い・不味いを決して忘れない。ノラとの付き合いは、この後、十年続くことになる。ノラが自分の年齢を気にしているのを一度も見たことはない。実際、老けたなと思わせることもなかった。最後に会った日々を別として。

黒生ホッピーを飲み干して、割り元の焼酎を使い切ったら、ノラが宮城の伯楽星の純米大吟醸の名を高々と読み上げる。当店は四合瓶を置いてないので、二合カラフェでの注文となる。学生だったころのダイヤには、高級すぎる酒だった。ノラもダイヤも酩酊が進んだ。

実は、この数週間後に訪れた当店で東北大学卒の女性と知り合うことになる。三歳年下で文学部出身だった。彼女は、まだ駆け出しだったが、ドイツ語の翻訳家。外車屋でドイツ車に関する資料を翻訳してもらうことになった。大阪では、東北大出身者が互いに出会う可能性が極めて低い希少種同士だった。ノラが引き合わせたようなものだ。

彼女の名は杏子という。ドイツ文学専攻であり、まだ文学系の翻訳に未練があったようなので技術資料なら頼もうと思わなかったが、環境保護全般に関する文系のマーケティング資料なので、任せてみようと思った。

ダイヤの記憶は、こんなふうに錯綜しがちだ。人は、絶海の孤島に独り取り残されるなどして孤独を極めると、記憶が不規則に継ぎ貼られていく。ダイヤの魂は、孤独の海を彷徨っていた。孤独は、言葉により研ぎ澄まされる。言葉を持たない昆虫や鳥や、獣、いや言葉で表現しようとしない人間はどんなに孤独な状況にあっても孤独を表出しない。だが、仲間からも飼い主からも逸(はぐ)れて一人ぼっちになったオウムが孤独を叫ぶとき、そこに底知れぬ孤独の深淵が生まれる。

ノラは言葉で孤独を表さない人間の一人だった。杏子は、孤独を表現することが大好きな文学少女だった。重いものを感じながらも、杏子には共感(共振ではない)を憶え惹かれていった。一年ほど経ったころ、男女の仲になり、一緒になることも考えた。

だが、その日、伯楽星で脳天まで酩酊したノラとダイヤは、原始時代からの慣わしに従って、対価を伴う男女関係へと進展してしまった。ノラ曰く「ホテル行こ。ただし、援助やで」

降り始めた雨の中、タクシーで桜ノ宮のホテル街近くまでたどり着いた二人は、コンビニに入り、アルコール類を買いあさった。雨模様なのに、ホテル街にやたらと人が多い。満開の桜のせいだ。

ダイヤはノラに共感などしない。だが、もっと原初的な感覚や官能の部分で共鳴してしまう二つの音叉だった。震源から何百キロも離れた高層ビルを大きくしつこい横揺れで倒壊させてしまう共振周波数の呪縛だ。

飲み屋で高い金を払った上、ノラに援助金を払うのは困る。だから、ホヤを食べた三陸系の店を出ると、すぐにタクシーに乗った。十三がそもそもホテル街で知られている。だが、ノラはさすがにご近所の人に見られないとも限らないと抵抗感を表明したので、長良橋を渡って桜ノ宮方面に向かった。

雨模様で蒸す空気。花冷えではなかった。蒸し暑かった。一室に入ると、ノラと缶ビールをあおって喉を潤す。コンビニで買った蒸し饅をパクつく。

「そろそろ、お風呂入るわ」と言って、ノラが素早く全裸になる。身長は一六五センチほどあるようだが、体重は40キロしかないという。あの大食いで、この痩躯。

「高校一年のころまではバレリーナになるつもりやってん」と言うと、彼に背を向けたままY字バランスの体勢を取る。彼の下半身から劣情が昇り龍のように上昇する。そのまま背中に抱きつき片手をYの付け根に潜り込ませてやると、「あほ。やめといて」と叱られる。

その日から、ダイヤが「援助」することも多くなった。援助なしでただ飲みに行った日の方がノラが猫のように懐いてきたかもしれない。援助なしでも、二人の娘に食べさせるものを買ってくれとノラが母猫のようにダイヤにせがみ、会計を済ませた後、ノラが口づけを求めてくる。

近所の人に思いっきり見られかねない場所でダイヤの首に手を回し、そのみずみずしくて柔らかい口唇を合わせてくる。人に見られることをまったく恐れていない。

ノラの美しさの前には、どんな男だって無力だろう。ダイヤも、ある意味、骨抜きにされていたのか。しかし、ノラと恋に落ちている自覚はまったくなかった。二万円を超えることはなかったが、対価を渡しているせいか。バブル崩壊後のあの時代、同年代の友人のうち、身を固めた連中からは家に入れる金が大変だと聞いていた。それに比べれば、こちらはこのままずるずる続けても月に十万円程度。女性がいる飲み屋に通えば、すぐに消える金額だ。

いや。ダイヤが心の奥底に孤独を抱えていて、ノラがその孤独をまったく癒してくれないタイプの女だから惚れることはなかった。官能レベルでの共振は大いにするが、感情レベルの共感はしない。だから、ノラと完全に絶縁することなく杏子と付き合い始めることになった。

ノラの心が病んでいようが、まったく気にならなかった。いや、年数が経つにい連れて、ノラは明らかに病んできた。朝から酒を飲むのが当たり前のようになり、いつもアルコール臭い息で現れるようになった。酒を控えろと言う気になれなかった。出会って七年以上経つと、ノラの肉体も病み始めた。さすがに酒を控えろと言いたくなった。だが、心がひどく病んだ状態だったノラは、縄張りに侵入された野良猫のようにダイヤの助言に反発した。


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