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野ラーメン《Section 1》

人は言葉の一句の中に奇跡や退廃や文学を住まわせることだってできる。退廃した文学者の残滓を散りばめた氏名を持つこのフィクションの主人公、宰津大冶(ザイズ・ダイヤ)がノラと出会ったのは、大阪市北部の大地を引き裂いて流れる淀川のほとりだ。小説家を文学者呼ばわりするのはおかしくないか。それは、ダイヤをレーサー呼ばわりするのと変わりない。ダイヤは自動車を売りさばいているがレーサーではない。自転車で河川敷を乗り回しているがレーサーではない。

まだ二十八歳で、毎日河川敷を自転車に乗って自宅のある淀川区から守口市の職場まで通勤していた。ノラと言っても猫や犬ではない。流香という名の女だ。年齢はダイヤより七歳年上で、当時は三十五歳だった。大食いで大酒飲みの女だが、大食い女にありがちなこととして、身体は細かった。三十を過ぎると、二の腕がだぶついている女性も少なくないが、ノラの二の腕は向こうの空間が透けて見えるほど削げていて、そこに異次元が顔を覗かていた。

本人には、流香と呼びかけるが、心の中で彼女を思い出すときは常にノラと呼んでいた。彼女の異次元は、いくら暴飲暴食を続けても太らない消化器官からこの世に口を開いて、目の前に供された食物を平らげ、アルコール飲料を飲み干す。ここらの河川敷は、存在しない家をたった一枚の板切れで模すことによる虚偽の町の再現とは一味違う掘っ立て小屋で彩られていた。

最初に出会ったとき、ノラは河川敷のベンチに座ってビールを飲んでいた。ノラは空を見上げていたのか。流れ行く雲にタバコの煙をかぶせようとしていたのか。あるいは淀川本流を遡る副流煙の渦巻きを形成し、淀川から毛馬水門を経て分流する「大川」の空気を汚染させ、これから花咲こうとしている可憐な桜の蕾を全滅させる魔女と化して全大阪の憎しみを集めようとしているのか誰にもわからなかった。

ダイヤも瞬時の血圧上昇を引き起こすタバコを一服したくなり、ペダルからビンディングシューズを外す。近くのベンチに座ろうとすると、そのパチンとなる音を女がとがめる。ダイヤの方を見つめると、「何か外れたけど大丈夫?」

「ああ、ペダルから靴を外しました」。ダイヤは靴の裏側が見えるように。左足を裏返して仕組みの概要を説明した。ダイヤが乗っていたのは、ツールドフランスに代表されるロードレース用の自転車をオフロード向けに設計しなおしたシクロクロス車だった。その当時、十三~守口間の淀川河川敷には未舗装区間があったから、オフロード車であることが望まれた。

なお、自転車など、足が一体化している方が速く走れるに決まっている。だが、足が一体化していると転倒したときに重傷を負ったり、重傷過ぎて死ぬリスクが暴騰する。だから、とっさのときや信号で止まるときに足をペダルから切り離すことができる仕組みが採用されている。人もいざというときに自分を社会から切り離したり、自分の心を肉体から切り離すことができる。ただし、肉体と心を切り離した場合、心はどこに行くのか誰も知らない。社会から自分を切り離す行為の結果、国家権力により心から肉体が切り離されることもある。

河川敷の道沿いには、地図にない村が存在した。地図にないがゆえ、誰もその名前を知らない村だ。ホームレスの人たちが無許可で川べりに小屋を建てて暮らしていた。ノラの姿を直視していなかったときは、ノラが「村民」の一人であるかのように見えた。

この村を支える「産業」が二つあった。一つは、シジミ採取業。ここらの浅瀬から採れたシジミは、業者が買い取りに来て、極秘裏で島根県産として店頭に並べられる。もう一つは、船舶チャーター業だ。水上スキーやウェイクボードの愛好家に利用されている。一見すると、汚れて臭い都会の川で、彼らは生き生きと水上アクションに興じる。

ダイヤにとって気がかりなのは、うち一台のボートの名が「タイタニック号」であることだ。タイタニック号の悲劇を想起するとき、ダイヤの脳裏に浮かぶのは、船が沈もうとしているのに逃げることより、弦楽器を鳴らすという自分たちの使命を果たすことに没頭して凍てつく海の藻屑と化した楽団員たちのこと以外にない。

自宅への行程をその無名の村で止めるだけで、さまざまな想念に心奪われるダイヤであったが、女は「ねえ、お兄ちゃん、ビール飲む?」と突然気安く呑みに誘う。その時点でその相手が荒れ野に咲く可憐な花のような美女だと気づいていなかったダイヤは、こんなところで頭のおかしい女に声を掛けられるとは―と驚いた。

女の顔を覗き込むと、頭がいかれているようにもアル中のようにも、ホームレスのようにも見えない。色白で瞳の色が薄く、顔面の輪郭が小さい美人だった。この世には「美人過ぎる美人」が過剰に棲息している。美人過ぎてしまうのは、基準を下げているからだ。その過ちを犯しているのは、多くの場合、マス・メディアである。☆

「アルコールを飲んだら自転車に乗れなくなりますよ」と断ったのだが、「だったら十三の町中に本格的に飲みに行けばええやん。自転車は駐輪場に置いとけばええやん」と提案をエスカレートさせてくる。

いや、本日はもう守口まで行かないので、あとは帰宅するだけだ。河川敷は公道じゃないので、飲酒していても警察に捕まらない。町中を少し押し歩きすれば家に帰ることができる。

まだ独り身で交際相手とも別れて手持無沙汰なダイヤには、こちらが飲食代を持つにしても、こんなにきれいな女と飲みに行けるのは悪い誘いではなかった。だがノラはノラだ。まともな女になれない定めの野良女だった。ノラには、娘が二人いた。最初は独身のシングルマザーだと話していた。だが、ここらあたりから一筋縄ではいかない異次元が絡まっていた。

最初に呑みに行ったとき、ダイヤは正直に自分の生い立ちや年齢などを話した。「名前はダイヤ。大冶と書いてダイヤと読む。守口で叔父が自動車輸入会社を経営していて、そこで働いてるねん。ヨーロッパの自動車を輸入して売ってるよ」

「じゃあ、ええしのボンボンやんか。まだ結婚してないの? ルカはダイヤより七つも年上でシングルマザーやから対象外やろけど」

「なんで外車乗らんと自転車乗ってるの?」

「BMWも持ってるよ。一人のときは、あんまり乗らんけど。叔父には子供がいない。俺が後継ぎ候補や」

一軒目の店は、最近オープンした清潔そうな焼き鳥屋。ノラが串を各種につき四本ずつ注文したあたりから怪しいものを感じていた。酒も高知の酔鯨大吟醸の四合瓶。ノラは、これらの品々を立て板に水のような口上で注文する。

「ごめん、びっくりした? あたし大食いやねん。この間も会社で同僚がランチをおごってくれるというので、心斎橋の高級すき焼き店に二人で行ったんやけど、松坂肉を三回お代わりして――それでもあたし的にはセーブしてたけど――ワインも四本飲んだ。ダイヤより二歳下の男の子やったけど、レジで顔面蒼白になってたわ。

「私ら、仕事中に呑むのはOKやねん。営業相手と呑むこともあるしな。…で、あたしもお金持ってなかったから、払えなかったらどうしようか心配になったけど、なんとか払えてめでたしめでたし。ダイヤは、ボンボンやし、安心してええよね」

なんじゃこのアバズレ! ダイヤは心の中で呆れかえっていた。とんでもない女に引っかかったなと後悔し始めた。

だが、そういったエゲツナイ言葉が透明度の高い目鼻立ちをした美女の艶光りする口唇から紡ぎだされるのだ。その異常な食欲と酒欲で周りの者を驚愕と幻滅の世界に引き込むノラという異次元。

最初はノラが嘘つきだと気づかなかった。同僚にたかがランチで五万円も奢らせたことや、保険会社に勤めていることに嘘はなかった。男にモテて、よくご馳走になるのは本当のことだろう。ノラもダイヤと同じく阪急十三駅近くに住んでいたようで、知り合って間もなく駅前に高校生ぐらいの女の子と一緒にいるところを目撃した。

その日、焼鳥の次は鮮魚専門店だった。並みの食欲の普通の酒飲みが行けば一人四千円で収まる焼鳥店の勘定が二人二万円近くに跳ね上がった後で、ノラは最初に呑んだ純米大吟醸の倍の値が付いている獺祭大吟醸四合瓶を注文する。ふぐ刺しを肴に。

さすがにダイヤはノラに牽制球を投じた。「カードで払うけど、さすがに予算の許容範囲を超えてしまいそうや。この後、ラーメン屋に付き合うから勘弁してくれるかな」

ノラの美貌には一点の曇りもなかった。容貌と内面は連動していない。ノラの心は濁り切って、乳化され切らない不純物が淀み沈んでいる。なぜかダイヤには初対面のときから、そこまで読み切れていた。だが、その汚れ切った水に、清廉な湧水が混じり込んで、視界から一切の汚れや濁りを消し去る瞬間がある。沈殿物に覆われた水底から湧き上がってくる水が汚染をかいくぐって澄み切っているからこれが起こる。

「野良」は本来家畜化された動物に冠される言葉だ。ノラは、野良猫に似ているが、その正体は本来野良でしか生息していないチーターだ。その痩躯、長く伸びる手足、俊敏な身のこなし。飽食で運動不足の体つきではない。いつも腹をすかして獲物を追い求めているネコ科肉食獣の殺気をその後ろ姿に漂わせている。美しい生き物ではあるのだが、その飲み食いのペースはノラの周りの時空を捻じ曲げている。

ノラは、もともと社長令嬢でお嬢様育ちだと嘯(うそぶ)いていた。その真偽は今でもはっきりしない。ただ、幼いころからバレエを習っていてバレリーナになる予定だったのに、高校時代に悪い友達と付き合うようになって、高校三年生で妊娠し、長女を生んだと話していた。長女をバレリーナにするつもりだと言う。

焼鳥店では、串を合計五十本は食べ、酔鯨の純米吟醸を八合飲み干し、鮮魚店ではふぐ刺しを三人前とオコゼやキジハタなどの高級魚の煮つけや空揚げを三、四皿は平らげ、獺祭の純米大吟醸を四合飲み干した。これらはダイヤが摂取した肴や酒を含む分量だが、食べ物は八割以上がノラの胃袋に収まっているはずだ。

しかもラーメン屋では生ビールを中ジョッキに二杯飲み干しながら、背脂たっぷりなジャンク系の麺をさらに一杯お代わりした。この暴飲暴食は別のパラレルワールドで起きていることだ。

二杯目のラーメンを平らげても、まだ小腹が減っていると言う。やむを得ず餃子を三皿追加する。餃子が焼ける前にラーメン屋の引き戸が開き、外からおしぼり業者の男が入ってきた。ノラは急に沈黙して、ダイヤから体の密着を離す。

小声で「あの人、知ってるわ。前の旦那の連れや」と伝える。おしぼり屋が回収と配達を終えて帰ると、ノラが元どおりダイヤに密着した着座姿勢に戻り、「前の旦那は、やんちゃな人でねえ…、さっきの人も『あっち系』の男やった」

守口の外車屋に勤める前に、外車屋と同じく叔父がオーナーをしているバーのマスターを任されていたから、ノラが何を言わんとしているか想像できなくはなかった。雇われマスター時代も、詐欺商法で高額な宝石や装飾品を売りつけている女やソープ嬢など、この世の常識と良識の地平が地割れたところにしがみ付いて、明日をも知れない今に流れて羽根を震わせている女たちと巡り合った。

「元旦那は、刑務所に入ってるんよ。凶悪犯じゃなくて、クスリを売ったりしてた罪でお勤めになったんや。あたし、人の顔を覚えるのが無茶苦茶得意やねん。さっきの人も、あたしには気づいてないはずや。さっきの人が元旦那と一緒にいるところを一回だけ見たことあるんやけど、二十歳ぐらいのときなので、もう十五年も前のことや」

こう言った話に嘘はなかった。ノラは、高いフードバトル能力が食料危機の懸念を払拭できない温暖化時代において燦然と輝くだけでなく、驚異の相貌認識力を持つ「スーパーレコグナイザー」だった。虚言壁には手を焼かされたが、二十代半ばでマスターを任されていたころに出会った女性客やスタッフのディープどころに比べれば、まだ被害を回避できた。


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