見出し画像

歪んだ愛情でも、寄り添ってくれたもの【詩】

自作詩(東方Project二次創作)

 いつも傍にある/ミスティア・ローレライ

解説:

 ミスティア・ローレライは妖怪『夜雀』とされている。その鳴き声は山中に響き、聴いた者に様々な不吉をもたらす。その身を捕らえた者には夜盲症を、その声に惑うものには鳴き声をさらに夥しく増すことで行く手を阻む。他にも、類似の妖怪であり人を食い殺すこともある『送り狼』の前兆として現れるなど、夜雀の示す凶兆は数多くある。おまじないや精神の持ちようで退散させうるともあり、まさしく、妖怪と呼ぶに相応しい。しかしその正体については、アオジという澄んだ囀りを伴う小鳥であるとされる地域もあり、人々の想像力による誤解が生み出した妖怪である可能性もある。(昨今では有名な妖怪『鵺《ぬえ》』も、その奇妙な鳴き声の正体は、現代ではトラツグミとされている)

 ミスティア・ローレライも夜雀のごとき能力を持っている。彼女との戦闘中にはプレイヤー周辺の視界が著しく悪化し、自機を中心に限られた狭い範囲以外は真っ暗闇に覆われた状態で、被弾してはいけない弾がそこかしこから飛んでくる。また、「歌で人を狂わす程度の能力」を自称しており、ゲーム中で彼女の持つテーマ曲は『夜雀の歌声』『もう歌しか聴こえない』の二曲であり、「歌」の字が多用されている。

 (ゲーム中での弾幕。画面上部が黒くなり見えなくなる。難易度が上がると見える範囲がどんどん狭くなる)


 暗闇のため人間には正体がわからず、しかし美しい歌声を持つ妖怪として、セイレーンのようにも、夜雀のようにも、俺の目には映る。
 おそらく夜雀の歌声とは、魅力あるものというより、蠱惑的で気味の悪いものとして解釈されているのだろう、と思う。だが、俺はそこに確かにあるだろう魅力の部分の方に、目が行ってしまった。

 夜雀のことを調べたとき、俺の脳裏にあったのは、素質も能力も美しいものもあるのに、それに甚く感動する自分とは裏腹に、世間には大きく評価されない人間のことだった。
 どちらかというと夜雀やセイレーンは、人の注目を集めるだけの力はあるがそれ故にか疎まれるものだと思う(追放モノの文脈の一例のように)のだが、そう思いながらも、俺の中にある夜雀のイメージは、美しいものを美しいと評価されない人というのが拭いきれなかった。
 それはもしかすると、能力は十分にあるが、自身の能力をプロデュースする力どころか、その意思さえもちゃんと持っていない人で、然るに評価されていないだけかもしれない。もし世の中の人の審美眼のなさを呪っているのなら、自分のそのあたりを見返すほうが先決だろう。そうは思う。
 だが、そう上手く、真っ当な論理に行き着いて、すぐさま正しい選択と行動ができる人間ばかりではない。どうして評価されないのだろう、どうして見られないのだろう、これをいいものと思って世に出している自分の感性は間違っているのだろうか。そういう自責と疑念に駆られて自信を失くす人は存在すると、どうしても思ってしまうのだ。
 「評価されていない人はきっとみんなこう思ってるはず」なんて烏滸がましいことは考えられないが、そんな迷いに惑わされる創作者がいても俺はいいと思う。というか、俺がそうだ。そういう人が他にもいてほしいと、自分を省みて改善するより前に、どうしようもなく思ってしまう。

 俺は、その人が自身を宣伝する能力を持っているか否かに関わらず、面白いとか、美しいとか思ったものには心を惹かれてしまう。そのとき、どうしてこの人の良さがつたわっていないのか、焼きもきすることもある。再生回数二桁の動画や音楽、全然人が並んでいない同人誌即売会のサークル。それらを見たとき、未だに、どうして、という思いが湧いて出てしまう。

 それはきっと、俺自身の不安が生んだ、あくまで自己保身のための心配なのかもしれない。
 こんなに良いものが評価されないなら、俺のつくるものなんてどうやって読んでもらえる?
 こんなに素敵と思うものが世間に注目されていないなら、それを素晴らしいと思う自分の感性で何かを作ったところで、まったく世間とはズレたものしかできなくて、面白くもないんじゃないだろうか?
 俺が信頼したものがあまりに見られていないのなら、俺は一体どうすればいいんだ。

 そういう、あくまで自己中心的な焦りに基づいて、この詩はできている。それは、評価されない作品でも好きだと言い続ける、というまっすぐな愛情だけでなく、俺は間違っていないと証明してくれという見苦しい希求が混ざっている。歪んだ愛情だと思う。
 そんなもの、人に押し付けるべきではない。
 俺は自分の感情が、歪んだ醜いものを孕むことを薄々知っていて、だから好きな作品のことを言及するのを避けてきたのだな、と思う。醜いものが露呈して自分をもっと嫌いにならないように、と、この詩とこの記事を書いて思った。
 (過去に自分で書いた翻訳記事などを通して好きなものを表明はしているが、それを書くたびに、自分の中にあるわかってほしさがどんどん露呈していくのが俺の手には感じ取れた。自分の好きなものを取り出すほどに、自分の嫌いな部分と目を背けずにはいられない。最初はtwitterで気軽に好きなものについて呟いていたのが、次第に特大の記事一発分で理論武装しないと、好きを表明できなくなってきた。たくさん書いてきた結果、今や、俺の中にある好きという感情に、おれ自身への分かってほしさが含まれていることを、否定しようがないのだ)


 でも、たとえ歪んだ認識に基づいた愛情であっても、その対象を好きだという気持ち自体は本物だと言いたい。歪んだ愛情により出逢えた好きなものが、俺の苦しいときをなんとか乗り越える活力として、いつも傍にあったのは事実だ。それに支えられてきた。こころから求めてきた。未だに手放せない。手放すつもりもない。

 そうした逡巡の先のいつか、愛情と感動に突き動かされたことさえも自分の醜さの証明であるという虚しさ・無意味さに心を折られながらも、それでも様々を見つめて知ることを忘れなければ、いつか、あの美しさに迫れるかもしれない。それまで、いいや、それに至ったとしても、俺はこの感動をもたらしたものを忘れずにいよう。そういう詩です。



 もう一つ、元ネタの話をすると、「九月は乾いていく」というフレーズは、Solitude A Sleepless Nightsの楽曲『Nefertiti』『The Rectitude Pulsation』の歌詞から取っている。
 Nefertitiについて書くと、思うに、この曲は「憧憬」がテーマにある楽曲で、歌い手の憧憬する人が憧憬するものを見て自分もその上に生まれたかったとか、その人が熱量を失って乾いてしまう姿にそれでもあなたは美しかったと肯定してしまうこととか、そういう歌詞と情景が綴られた曲だ。
 俺はこのバンドがもっと売れるべきとか、なぜ世の中の人がこの魅力に気づかないのかとか、そもそもちゃんと評価されてるだろとか、そういう話をしたいのではない。それはバンド自身が心から望んだのであれば背中を押すべきことだが、そうでないならば俺の押し付けに過ぎない。万人が同じく称賛したからといって、そのことが俺の自己保身の糧にしかならないのなら、つまらないことだ。
 何より、このバンドと楽曲のことは、初めて聴いたときから好きで、今も聴き続けている。たとえ俺の認識と感動が歪んでいるのだとしても、このどうしようもない自分の傍に居続けてくれた、確かな歌なのだ。その事実は、誰が認めようと否定しようと、変わりはしない。そして俺は、そうやって得た感慨を作品にして文章にしていく。いつかその活動が、これまでのすべてに報いることを願って。


醒めていく九月をあの絵の具で覆って
ただ楽園に辿り着いた君の笑顔だけ

それでも片足の行き着く場所
渇いた瞼の行き着く場所
そうして片足の行き着く場所
潤んだ瞼の行き着く場所