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通りすがりに母国を背負う

新しい街の暮らしは「ちがう」を集めることから始まる。

シカゴ郊外の空は淡くて、水をたっぷり入れた水彩絵の具みたい。そんなふうに思った次の瞬間、ここは雨がよく降る地域だと気付き、ひとり納得を深める。関連性があるかはわからない。ただ、晴れの日が多いカリフォルニアの空は、パキッとした濃い青だったから。

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恋しさは優劣から生まれるわけではない。それほどまでに、以前の生活が私にとって日常過ぎただけ。

夏の景色を比べてみる。ふさふさに濃い緑とか、夕立ち後の湿りとか。シカゴ郊外の夏は、きっと短い。これからは、どんどんちがいを見つける日々になる。葉が赤や黄色に装いを変える秋、氷点下の寒さに凍え縮む冬。やがて春の息吹を感じる頃には、新しい街にすっかり馴染んでいるのだろう。

滞在中のホテルは1DKのような間取りをしている。小さなキッチンとリビング、キングサイズのベッドが置かれた寝室。夫は引っ越し中だろうと平日は仕事だから、働く場所の確保が求められた。

私たちがいるとやっぱりフルタイム稼働は難しい様子。日中数時間まとめて確保し、夜中に続きを行う。深夜にカタカタとパソコンを打つ音がよく聴こえてきた。ふと目を覚ました私は、子どもたちがベッドから転げ落ちないように位置を整えて、また眠りに入る。彼らがはやく就寝した夜は、一緒にオリンピックを観た。

この期間はがっつり仕事を減らすと決めた私の主務は、子どもたちといること。夫の邪魔にならないように、Googleマップで調べた近所の公園へ出かける。

着いてから数日、シカゴ郊外はとても蒸し暑く。拡声器を使ったようなセミのけたたましい鳴き声は、日本の夏を彷彿とさせた。実家の冷蔵庫にいつもあった麦茶を思い出す。あれが飲みたい。

車から降ろすと勢いよく広場へ駆けていく子どもたち。狭い室内から解放された彼らに、温度も湿度も関係ない。ほんの10分ほどで、先にいた少し年上の男の子と遊び始めた。英語でやりとりをしている。あっというまに友達を作っていてすごい。

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昔、と言ってもほんの2〜3年前なのだけれど、長男は人見知りが強くて足元から離れようとせず、その姿は私の幼少期によく似ていた。彼を変えたのは、間違いなく私たち親ではなく環境だと思う。

熱中症にならないように水分を補給させながら、木陰のベンチで見守っていると、白髪混じりの女性が端にちょこんと座った。目を細めて見つめる視線の先には、息子たちが一緒に遊んでいる男の子がいる。年齢から察するに、おばあちゃんだろう。

長男に倣って、私も話しかけてみる。病院で働く娘さんに代わり、平日のうち数日だけ孫を預かっているようだ。室内遊びに飽きたら公園に出かけるのがいつものパターンらしい。

こちらも少し身の上話をする。カリフォルニアから来たばかりなこと。入居までホテル暮らしをしていること。家族や多くの友達は日本にいること。そんなやりとりを重ねていたら、ふっと会話の風向きが変わった。

あなた、オリンピックは観ている?

えぇ、ホテルで少しだけ。と返すと、女性は流れるように「I'm very sad」と言った。次は私が話す番なのに、言葉が出てこない。パンデミック中の開催に加えて、熱中症になった人もいるんでしょう。ニュースで見たわ。そう続けられて、ますます返しに窮してしまった。

増加する感染者、酷暑の8月開催、他にもたくさんの問題視されている現実を、私もニュースで耳にしている。言えればよかった。そんな状況に対して、母国では最善の対策と努力がなされているはずだと。言えなかった。

安心してスポーツも観戦も楽しめる世の中に戻るといいね、などとふんわりした会話に舵が切られた。その舵取りは私だったのか女性だったのかわからないけれど。気付けば子どもたちが水飲み場でずぶ濡れになっていて、慌てて向かった私たちはまた会いましょうと最後の言葉を交わして別れた。

小さな公園で、通りすがりに母国を背負う。

なんだか心が重い荷物を抱えたみたいになり、子どもたちの元気な声がそれを取っ払う。びしょびしょの二人を着替えさせ、スーパーへ向かうことにした。

はじめましてのお店は、少しだけ買い物に時間がかかる。おやつに食べるパンをどれにしようか迷っていると、前にスッと大柄な男性が現れた。私が手にとっているパンを指差し「いいチョイスだ。坊やも気にいると思うぞ」と教えてくれた。ニューヨークヤンキースの帽子。近くにある美味しい日本食屋さんの名前まで告げてくれて、颯爽と去っていった。

そういえば、訊かれてもいないのに、なぜジャパニーズだと分かったのだろう。私たちがこれから住む予定の街には、日本人がほとんどいない。その事実に、少しだけピリッとした緊張感を持っている。

麦茶は売っていないので、ブラックティーのペットボトルを買った。喉が本当に欲している清涼感とはちがう気がしたけれど、帰路の車内でぜんぶ飲み干した。ちゃんと美味しかった。

最後まで読んでいただいてありがとうございます。これからも仲良くしてもらえると嬉しいです。