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会田誠 『げいさい』 を読む

刊行されたことは知っていたが、高橋源一郎のラジオの書評で紹介していたことから読みたくなった本。マスクばっかり作っていたり途中体調不良だったりでチンタラ読んでしまったけれど。
この本そのものの感想は、表層的に発言していたことが全然表層的なものではなかったのです、ということかなあと。この前に書かれたエッセイ『美しすぎる少女の乳房はなぜ大理石でできていないのか』の中で触れていた、美大生に伝わる宴会芸、「よかちん」の精神性と、それを行う芸術系学生の、垂れ流される強烈なエネルギー(だいぶ卑猥さは違うが、信州大学の鳥類研究所に伝わる「七曲り」もこれに近い何かがあると思う。)の正体を正面から説明してくれた小説なのかなあと読んだ。美大を諦めちゃった人、第一志望でない美大に行く人、芸大に入るも絵を辞める人、絵を描くことそのものの重さ、油絵を描くことってなにに苦しむことなのか、色々教えてくれるけど、この本は、作者の会田誠がそうであるように、絵を描くこと、少なくとも描くべき衝動を持った人の話だと思った。
全然次元は違うけど、人文系の学者だっておんなじような要素ってあると思う。書きたいことと、書くためのテクニック的なことが、目的的にも技術的にも解離している、それをいろんな段階で繰り返し突きつけられて間口を絞られていくこと、その絶望と、認められた喜びと、自己模倣と、相手の意図にそぐわなかったことをした時の絶望感と、それでも満足してしまう時の悔いのなさと。続けてきた、持ってる人が、自分の周囲の人々を、まだ何者でもなかった時代にどう見ていたのか、という話として、読んだ。 
だって主人公の二朗は持ってるんだもん。技術も描きたいものも衝動も、泥臭さも、サザエ獲れる野性味も、サッチンも(関なぞドイツ留学の前夜にサッチン捨てるに相違ない。そしてサッチンはぺろっと戻ってきたに相違ない)、ライバルが持つ力を嫉妬だけでなくちゃんと評価する目も、才能買ってくれる先生たちも、ライバル虚しくさせるホンモノの凄みも、げいさいの夜をさらってしまうゲロパワーも、何もかも全部。
それなのに何故か高橋源一郎の書評ではそこに全く触れなくって、むしろ、美術を諦めてしまった脇役の一人が、「芸大受験を突破した次の瞬間に虚しくなって自殺した女の子の気持ちがわかる」ことを描写したことに感極まったレビューをしていたのよ。
なんで?なんで高橋源一郎、ここにキュピーンときたの?本筋全然違うじゃん。それって全然本質にかすってないじゃん。前から思っていたが(樋口一葉についても、本体の樋口一葉ではなく、一葉のような本物の小説家に
になりたくて、なりきれなかった半井桃水に寄り添った文章を書いていた経歴あり)なんで高橋源一郎は本筋じゃないところに変に感動して読みたがる癖があるんだ?
本人自体は作家として成功して自分を漱石みたいになぞらえた小説も書いて、文学賞の選考もやって、めっちゃ真ん中にいる人なのに、なんで選ばれなかったこっち側の気持ちに、「僕は寄り添えるでしょ」感を出すのか?本筋の内容と全然違うにも関わらず。

だけどもさ、現に私は高橋源一郎のレビューに見事に乗っかってこの本を買ってしまっている。
高橋源一郎の凄さって、その本の本質的評価を真正面から行うことでは全くなくって、本質的に面白い本というのを、多くの人に効果的に手に取らす方法論に長けているということではないのか。こっち側の気持ちもわかる、けれどこれは真正面からも面白い、けどこっち側の(無数の選ばれなかった)人たちにも手に取りやすくするために、僕はこういう視点から紹介するんですよという手法をとっていると感じてしまうのは穿ち過ぎか。
色々高橋源一郎について書いたけど、私は彼のラジオを数年来毎週楽しみに聴いています。紹介される本も大好きです。高橋源一郎の罠に気持ちよくはまっています。来週もラジオを聴くよう源一郎。

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