自己肯定感をあげるなんて無理



「私はこのままではいけない」「存在することが迷惑をかけてしまう」と思い続けるのは辛い。

だから、どうにかして自己肯定感を上げようとする。

毎日、帰りの電車でその日できたことをなんとか思い出して、自分を褒めてみる。
自分を好きになれるように、仕事で成果を出そうとがむしゃらに頑張ってみる。
失敗したとき、次に生かせばいいよ、と自分を励ましてみる。



でも「やっぱりだめな私」がどうしても気になる。できたことを振り返っても、他の人との差に落ち込んだり、「てか、そもそもできない私を受け入れられるのが、自己肯定感でしょ」と苛立ってしまったり。

自分に期待をすれば、うまくいかなかったときにがっかりしてしまうので、結局何もしたくなくなる。

「でも、このままじゃいけないよなあ…」とまた何かを始めてみる。

いつも、この繰り返しだ。




しかし、なんと。そんな私が、ここ1ヶ月近く「自己肯定感あげなきゃ病」を忘れられている。

きっかけをくれたのは、直属の上司だった。

四半期の振り返りで、進捗状況を淡々と話す私に対して、

「自分はダメだと思っているでしょう。なんで君がそう思うかは知らないけど、今だって何もできていないわけじゃないし、これからもより、ちゃんとできるようになると思うんだけどね。”ちゃんとできる”というのは、他の人に勝てるという意味ではなくて、君の望むやり方でお客様の役に立って、君自身が自分に納得できるようになる、ということだよ。」

と言うのだ。


なぜ私が私を受け入れられないのか、要因を探ったりはせず、さらっと『僕は君を信じているよ』とだけ、さも当たり前のように言ってくれた。

「そうは言ってくれても、私には無理だよ…」と思いながらも、自分より上司の方が信頼できるので、その言葉を信じるしかなかった。

期待に応えてみたいと思ったし、この人に信じ続けて欲しいと思った。

上司に、私を信じ続けてもらうことを強制することはできない。
でも、上司に信じ続けてもらいたいと考えて、私が行動を選択することはできる。

今までの姿を見て、信じてくれたのであれば、今までの行動を続けたい。
私が私を謳歌できると思ってくれているのであれば、自分がやってみたいと思うことを少しずつやってみたい。
こうやって、成長しようとする私を見せることが誠意だと思った。


そんなことを考えていると、忙しくて自分が自分を好きかどうかなんてどうでも良くなった。

自己肯定感をあげられたのかは謎だけど、少なくとも囚われなくなった。

「自己肯定感が低い」という課題をひとりで解決するのは、私には難しい。
でも、自分ではなく他人を信じることで、少し楽になれることを知った。

人を信じられる環境に身を置くこと、そして、この人に信じてもらえる自分でいたいと決めることの効果は大きい。

まずは自分でやれることをやってから、人を頼ろうと考えがちだけど、「自分でも頑張ること」と「他人との関係性を深めていくこと」は、並行してもいいのかもしれない。

ネガティブになってしまうとき、「自分を責めるこの行為は、あの人が喜ぶことなのだろうか」と冷静になれるから。

それに、上司が私を救ってくれたように、自分が誰かを救う側になる日が来れば、自分を愛せるときも来るかもしれない。


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