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私と彼らにある、幻の分断を超えていく



学生時代のあの仲良しグループみたいなものってなんだったんだろう、と思う。

ただでさえ狭い学校という世界の中で、さらに分断をして世界を狭くすることに一体全体なんの意味があったのか。

謎だ。

かくいう私も、ヒエラルキーを気にし、私は陽キャなんだ!と主張をしまくっていた。

「ねえ男子!ちゃんと掃除して!」のタイプ。

思い出すだけで恥ずかしすぎる。

あの頃は自分という人間がよく分からなかったし、いろんなラベルを自分につけて、他の人と差別化して安心したかったのかな、と思う。

あとは、一人になるということが何よりも怖かったから、世界を分断して、身内を明確にし、自分の所属を自分にも他の人にも示したい気持ちが強かったのかもしれない。



でも、社会に出れば学生時代のグループとかヒエラルキーなど、びっくりするくらいどうでもいい。

本当にどうでもいい。

会社でくだらない話や仕事の話で盛り上がったときに、ふと『この人たちと同じクラスだったら仲良くなっていただろうか』と考えることがある。

『あの頃だったら話すらしなかったかも』と思うたび、大人になった歓びを噛み締める。



共感できなくても、誰かを理解することはできるし、仲間にはなれる。

相手を理解しようとする姿勢と知恵がつくと、どんどん分断が減っていって、自分から見える世界が広くなっていく。

それは自分の価値観の多様化に繋がっていくから、巡り巡って、自分自身がとても楽になれる。

大人になるってそういうことなのかな、と思ったりしている。




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