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所詮は他人。

最近よく、人生の先輩たちからこんな言葉を頂戴する。
『いいとこ取りは出来ないからね〜』と。
この意味を尋ねると、何かを手に入れるためには何かを犠牲にしなくてはならないのだと説明される。
私は思う。
何かを達成(または入手)するためには本当に犠牲が伴うのだろうか?
例えば、私は20歳の頃に結婚したのだがそこには何か犠牲があっただろうか。
当時の私は家族のために早く起きて炊事や洗濯をし家族で生活をするために毎日働いていたが、一方その頃、同年代の子たちは自分のためにお金も時間も自由に使っていた。
そんな当時の私の姿を世間一般には犠牲と言うのだろうか?

勿論私とは対照的な人生を歩んでいたように思うが、私は自分のリソースを家族に捧げていたことに対して犠牲だと感じたことはない。
寧ろ、自分は周りの子たちが持っていないスキルを手にし、早くも人生の基盤を構築することに成功したのだと思っていた。
ここで言えるのは、誰かが思う犠牲は必ずしも自分が犠牲と感じるわけではないということだ。
だがその一方で、自らが犠牲と感じなくとも他人は犠牲と感じる場合があることもあるのではないだろうか。

私はいま、会社員の傍らハンドメイド作家としても活動をしている。
この時期はイベントも少なく対面販売をする機会がないが、春〜冬前にかけては俗に言う繁忙期に入る。
すると休日は朝から夕方までイベントに出店するため、家を留守にすることが増えてしまう。
最低限の家事は済ませているつもりだが、それでも休日に私が家に居ないという状況が家族からしたら犠牲になっていることもあるのかもしれないと思うこともある。

つまり、“自分は好きなことをする=自分は犠牲になっていない”のだ。
20歳の頃の私も自分の意思でその生活を選んだのだ。
だから、犠牲と感じなくて当然だったのかもしれない。
この理論でいくと、自分の意思で決定した目標を達成するために払う代償は本人にとっては犠牲だと感じないことになる。
他人からしたら苦労に見える物事は、当事者にとっては当たり前の事実に過ぎないのではないだろうか。
自分よりも人生を長く生きているからといって、その助言を決して鵜呑みにするのではなく、しっかり自身で咀嚼してから落とし込むと言う作業が必要なのだと改めて感じた。
そして私も同様に、受け取り方によっては相手の人生を制限するような発言は慎まなければならないなと今宵肝に銘じたのであった。
私たちは、所詮は他人なのである。


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