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苦手な食べもの〜肉編〜

私はフォアグラが苦手だ。

フォアグラのあのブリュンッとした舌触りと、無理矢理肥満させたアヒルの肝だと言う事実が私の興味を削ぎ落とす。

鳥肝は好き。火を入れるとパサつくあのポソポソ感がいい。固くなってポソポソするのにギュッと味が凝縮した感じがたまらなく美味しい。

そう、私にとっての鳥肝は赤黒くてポソポソの方。黄色がかった乳白色でトロンとしたフォアグラには馴染めない。

全く別の食べ物だと思い込んで食べようとしても、ほのかに鼻へ抜ける鳥肝特有のあの風味が鳥肝であることを隠しきれず、ボッテリと肥満化したアヒルがグワッと目の前にフラッシュバックする。グワシッ🤟オーモンデュ!

うまいうまいとフォアグラのソテーを頬張る家族に囲まれて、お行儀が悪いと知りつつも自分の皿に乗っている一欠片をそっと隣の席でよそ見をしている夫の皿へと移して知らん顔をするのが慣わしだ。シー🤫。

私が何度嫌いと言っても、いいから食べてみて、と皿に盛られるフォアグラの小さな一欠片。良かれと思って取り分けてくれるのは分かっているけど、味よりも「脂肪肝」のイメージが大きくてどうしても口へ運べない。

別に私ひとりがフォアグラを食べようが食べまいが、世界は何も変わらない。そんなことは承知のしょうちゃん。

だったら意地を張らずに食べたらええやん、と囁くもうひとりの自分もいる。それでもやっぱりメタボアヒルの「脂肪肝」を好んでは食べられない。


私はエスカルゴグルヌイユ(カエルの足)も苦手だ。

海の近くで生まれ育った私に海鮮以外の殻物カラモノは考えられない。カエルに至っては、足だけ食べて頭や胴体はどーすんねん!?という疑問が食への興味より勝るせいで食べるどころではない。

しかもエスカルゴなんてあのニンニクとパセリの効いたバターソースが美味しいだけで、身の味なんて分りゃしない。そんなものをわざわざ食べる必要があるのか?

カタツムリやカエルを食べなければならない必要性が、今のところ私にはないから食べようとは思わない。


そして私はラパン(ウサギ)も出来れば食べたくない。

フランスの肉屋で売られているウサギを見たことがあるだろうか?皮を剥かれてピンク色の身を曝け出し、白目をむいて横たわるウサギたちを。

私はあれを見る度に「因幡の白兎」を思い出す。

幼い頃に確か日本昔ばなしか何かの番組で見たことがあって、兎が悶え苦しむ描写がエグかった。声は市川悦子だっただろうか。もうめちゃくちゃに怖かったことを覚えている。

だから皮を剥がれてピンク色をして白目をむいているウサギに並々ならぬ恐怖を覚えるのだ。苦しみの描写が鮮明に浮かび上がるものを食べたいとは思わない。

それにウサギは骨が多くて食べにくい。どうしてもウサギを食べなければならない状況に陥ったら食べるだろうが、今のところはウサギ無しでもなんとか生きていられるから、ノンメルシー、と言わせてもらう。


居住地の環境がウサギやカエルしか食べられないようなところなら、ウサギやカエルを食べることが常識として生きていくだろう。

でも私はウサギやカエルを食べる環境には生まれなかった。

食べる習慣がなく、馴染みがないから苦手なのだ。


小さい頃に馴染みがなかったけど今は好きでたまに食べる肉としては、羊がある。山羊は苦手だが羊は美味しいし、羊にまつわる苦い経験も今のところはまだない。

それでも羊を食べるのは年に数える程度。鶏や豚ほどは食べていない。

牛についてはここ数年、自ら進んで購入した記憶がない。外食で何度か口にしたことがあるくらいで、もしかしたら羊を食べるよりも少ないかもしれない。


肉を食べるということは、命をいただく行為である。命をいただくにはその対象動物を殺さなければならない。

肉食動物として生まれてきたからにはおセンチになって、殺すなんてかわいそ〜、などとは言っていられない。人間以外の動物だって殺し合って食べ食べられて命を繋いで生きているのだ。人間だってそうやって生きてきた。

ただ私は無駄な殺生をなくしたい、と思っている。殺す必要のない命を殺すことはない。だから食肉は緻密な計算をして生産管理をし、過剰生産を起こさないように気をつけてもらいたい。

肉を食べたい人のところに届くように。食べたくない人のところへは届かないように。


嫌いだと言っているのにお皿に盛られる一欠片のフォアグラ。スーパーや肉屋に並ぶ赤やピンクの肉片。私が消費しない命の欠片が無駄に破棄されることがありませんように。

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