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1970年代のFCバイエルン・ミュンヘン

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前書き

 2024年1月7日、FCバイエルン・ミュンヘンのクラブレジェンドであるフランツ・ベッケンバウアー氏が息を引き取った。ドイツ史上もっとも偉大なサッカー選手である同氏が亡くなったことは多くのメディアで大々的に取り上げられた。

 ベッケンバウアー氏がバイエルンの下部組織出身であることやワールドカップ優勝の立役者であること、1972年と1976年の2度バロンドールを受賞されたこと、はたまた1860ミュンヘンの練習に参加した際のエピソードなどは非常に有名で、サッカーファンの方であればよく知ることのように思う。

 しかし、未だ四半世紀も生きていないような私のような人間にとってはベッケンバウアー氏が活躍した1970年代のバイエルンを直接見たことはなく、どういったチームであったか想像もできない。

 ただ知りたいと強く思う。本テキストでは、1969-70シーズンから1979-80シーズンにかけてのバイエルンのクラブ史を調べ、歴史を振り返りつつ、ベッケンバウアー氏擁したバイエルンがどういった足跡をたどったのか振り返る。

1970年代のFCバイエルン・ミュンヘン


0. 1970年以前のバイエルンの歴史

 1900 年 2 月、ミュンヘン市内中心部のレストラン「ギゼラ」で、初代会長のフランツ・ヨーンを含む17名の会員の署名により「FCバイエルン・ミュンヘン」が設立された。1933年に訪れたファシスト政権下での「暗黒期」を乗り越えたバイエルンは、1945年に設立されたオーバーリーガ・ズートに参加することとなる。

 18シーズンにわたって在籍したオーバーリーガ・ズートでは、降格した1シーズンを除いて3位から13位の間を行き来する結果となり、リーグ優勝はできなかった。浮上のきっかけを得ることができないバイエルンに転機が訪れたのは、1960年代に入ってからである。

 1960年代にバイエルンに訪れた転機は大きく2つある。1つ目はヴィルヘルム・ノイテッガーの会長就任である。1962年4月から1979年までバイエルンの会長を務めた同氏のもとでのクラブ運営が、バイエルンをより優れたクラブへと昇華させた。とくにズラトコ・チャイコフスキー監督の招聘とロベルト・シュヴァンコーチとの契約は、バイエルンが強豪クラブへ成り上がるための「妙手」であったとされ、高く評価されている。

 2つ目は1963年の「ドイツ・ブンデスリーガ」の設立である。今日でもよく知られているように、ドイツ・ブンデスリーガ最初のシーズンであった1963-64シーズンのリーグ戦には、バイエルンは参加できていない。オーバーリーガ・ズートからブンデスリーガに参加する5クラブのなかに選出されなかったためである。しかし結果として振り返ると、ブンデスリーガに参加できなかったことはバイエルンにとって「幸運」だったかもしれない。予算を小規模にすることを余儀なくされたバイエルンは若手育成に力を入れざるを得なくなり、結果として偉大な選手が成長できるクラブとなった。

 ユースチームから昇格を果たした20歳のゼップ・マイヤーと18歳のフランツ・ベッケンバウアー、1964年にネルトリンゲンから獲得した当時18歳のゲルト・ミュラーの3選手が先発に定着した1964-65シーズンのバイエルンは、レギオナルリーガを制し、ブンデスリーガ初昇格を果たすこととなる。上記の3選手を主力とするバイエルンは1966年と1967年にDFBポカール連覇を果たし、1967年にはレンジャーズとの決勝を制してカップウィナーズカップでも優勝を果たした。チャイコフスキーの後任としてブランコ・ゼベックを監督に招聘した1968-69シーズンには待望のブンデスリーガ優勝とDFBポカール優勝の2冠達成を成し遂げた。

1. 1969-70シーズン

 1970年代のバイエルンについて語るうえで、欠かすことのできない人物は何人かいる。ノイテッガー会長、チャイコフスキー監督のもと成長したミュラー、マイヤー、ベッケンバウアーにフランツ・ロートとゲオルグ・シュヴァルッツェンベルク。多くの選手や関係者がバイエルンに「輝き」をもたらしたが、もっとも重要な役割を担ったのはウド・ラテック氏かもしれない。

 バイエルンをブンデスリーガ初優勝に導いたブランコ・ゼベックが不振のために1969-70シーズンの途中で解任されると、ウド・ラテックが後任として招聘される。ポーランド生まれのドイツ人であるラテックがバイエルンの監督に就任するまでに指導した経験は、ドイツのユース代表チームの監督とドイツ代表のアシスタントを5年間兼任したことだけだった。それまでクラブチームを率いた経験がなかったにも関わらず、フランツ・ベッケンバウアーの推薦もあって、当時35歳のラテックがバイエルンの監督に抜擢されたのである。

 ラテックがシーズン途中から率いたバイエルンは、1969-70シーズンのリーグ戦を2位で終えて無冠でシーズンを終了すると、小規模なチーム改革を行う。ゲルト・ミュラーに次ぐ得点力を誇った功労者のライナー・オールハウザーを放出し、当時18歳のウリ・へーネスをウルムから、同じく18歳のパウル・ブライトナーをユースから、22歳のライナー・ゾーベルをハノーバーから獲得したのだ。

 すでにゲルト・ミュラー、フランツ・ロート、ゲオルグ・シュヴァルッツェンベルク、「皇帝」フランツ・ベッケンバウアーなど、25歳以下の若手のドイツ人選手主体でチームを構成したバイエルンが、ドイツのユース代表を指導した経験のある新進気鋭の監督と将来性豊かな20代以下の若手選手を迎えたのである。

2. 1970-71シーズン

 1970-71シーズンのバイエルンにとって、リーグ戦最大のライバルは、前シーズンにクラブ史上初のブンデスリーガ優勝を果たしたボルシア・メンヘングラードバッハであった。へネス・ヴァイスヴァイラー監督に率いられたグラードバッハはライナー・ボンホフやベルティ・フォクツ、ユップ・ハインケス、ギュンター・ネッツァーなどドイツを代表する名手を擁しており、成長途中の競合クラブだった。

 バイエルンとグラードバッハのライバル関係は1970年代を通して続くこととなる。1968-69シーズンから1976-77シーズンにかけての9シーズンの間で、ブンデスリーガ優勝を果たしたのはバイエルンとグラードバッハのみだった。この事実だけでも、バイエルンとグラードバッハの2クラブが、他クラブと比べて抜きん出た実力を誇ったことがわかる。

 1970-71シーズンのバイエルンは、22ゴールを挙げたゲルト・ミュラーを擁し、19勝4敗10引き分けの勝ち点48の状態で最終節を迎えた。グラードバッハとの直接対決では1引き分け1敗と勝利をあげられなかったものの、第31節のケルン戦に7-0のスコアで勝利するなど、圧倒的な強さを見せた。

 グラードバッハも同じく勝ち点48で最終節を迎えたため、バイエルンとグラードバッハの最終節の結果次第で優勝が決する状態であった。しかし最終節でバイエルンはデュイスブルクに0-2で敗北し、勝ち点を挙げることができなかった。それに対してグラードバッハは最終節・アウェーのフランクフルト戦に最終スコア1-4で勝利した。その結果、バイスバイラー監督率いるグラードバッハが、ブンデスリーガ史上初めてリーグ連覇を果たしたクラブとなったのである。

 1970-71シーズンのバイエルンはブンデスリーガのタイトルは逃してしまったものの、DFBポカールにおいては準々決勝でデュイスブルク、準決勝でデュッセルドルフを破って、決勝進出を果たした。決勝の対戦相手はハインツ・フローエやヴォルフガング・オヴェラート擁したFCケルンだった。

1970-71シーズンのバイエルンのメンバー一覧はこちら

3. 1971-72シーズン

 1971年はドイツ人にとって記憶に残る年であったのではないかと思う。リューベック出身で、ドイツ社会民主党の党首も務めた首相のヴィリー・ブラントがノーベル平和賞を受賞された年であるためだ。「東方外交」を進めたブラントが首相を務めた「1970年代前半のドイツ」は、戦後の「ドイツ」から大きな変革を迎えようとしていた。
(以降、現在編集中。)

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