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仕事と幸せと人生計画とルッキズム

小さい頃はいつかは普通に母になっているもんだと思っていたが、社会に出てから風向きが変わった。笑
私が目指す未来に自分の子供の存在が完全に消えたのは、たぶん今のパートナーと生活を共にしてからだとは思うけど、そもそも、10代後半くらいから急にいわゆる”家族を持つこと”に興味がなくなった。
なんなら、いかに一人で生きていくには、という方法を模索してきた気がする。

いかに一人でも生きれるほどのお金を稼ぐか。
まあ、そこまで贅沢が好きな人でもないし、高級品を愛しているわけではないので、自分の幸せのためにたっぷりのお金が必要というわけではないのだけど。誰にも迷惑をかけずに生きていけるくらいには。


基本的に仕事は好きだ。

これまで数社を経験してきて、そのどこにいても、仕事や働くこと自体を嫌いと思ったことはあまりない。もちろん、人並みに休み明けの仕事には乗り気がせず、寒い冬はぬくぬくした布団のなかでずっと過ごしていたいとは思うけれど。それでも基本的にはお金を稼ぐために働くことをマイナスには思っていないし、むしろいくら稼げるかをゲーム感覚で楽しめるくらいには前向きに取り組めている気がする。

対外的な仕事よりも自宅で行う家事のほうが大嫌いだ。掃除に洗濯にご飯作り。どれもこれも一人暮らしを始めた10代後半から行っているが、一向に好きになれない。むしろどんどん嫌いになっていっていて、もはや、どう手を抜くかしか考えていない。お金で買えるのなら家事労働は買ってしまいたい。

労働の対価としてお金をもらうことがある意味評価としてみなされるが、家事労働には正解もないし、評価基準もなく、なんていうか私にとってはどうでも良いことになってしまう。

ある意味、コンプレックスでもあるんだと思う、目に見える評価を求めてしまうのは。

それはもう物心ついたときからではあるが、私には数値化できない価値はないと感じていた。例えば、美醜についてとか。
間違いなく美人には部類されないので、見た目で得する人生が絶対的にないと小学校低学年の頃には気づいていたし、だからこそ、わかりやすい結果がないと不安だった。それは学力だったかもしれないし、部活動での成果だったかもしれないし、ダイエットで減った体重かもしれないけど。
とにもかくにも、顔やスタイル、センスというものからは遠く離れていた気がする。

だから、今でも、結果が給与に直結する仕事しか選べないし、残業代という制度が苦手だ。残業代で稼いでも納得感がない。そう、納得できないし、その稼ぎ方が自分にとっては気持ちよくないのだ。

うむ。
でも、そろそろ思うのだ。なんていうか、自分なりの幸せってほしいなって。

自分の幸せ。
自分なりの幸せ。

好きなお酒を飲みながら愛犬と戯れる休日は最高に幸せだ。雨だとお散歩にいけないから、雨音を聴きながら家の中でわんこと遊ぶ。そんな時間は確かに幸せだ。

だけど、これも、人並みに稼いでいるという根本が支えてくれている幸せで、例えばこれが私は仕事をせずに親の遺産だかなんだかで同じ暮らしをしていても、きっと引け目を感じて全然幸せじゃないと思うのだ。

相対的ではなく、絶対的な指針がほしいなあ。

いつまでも一緒。


自分なりの幸せがこれだ!というものが明確に言える人生をおくりたいなあ。






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