小供と小供の写真(作品)について

こども、ですね。
私は小供が好きです。
自分の子供が欲しいとかそういうのは全然なくて、まあいたら良いだろうなとは思いますが、もはや現実的ではないですし、他所の子を可愛いねえ、えらいねえ、と愛でるくらいがちょうど良いです。

小供のスナップを撮るのも好きです。写真の場合は、可愛いというよりはその面白さが主な理由です。ただ、作品として発表したりはしていません。いくつか理由はありますが、主に良心の話です。10年くらい経ってからどこかで出せればいいかもと、うっすら思っていますが。

私が過去に撮った小供のスナップを見たある写真関係の人が、「牛腸茂雄を彷彿とさせる」と評していました。ビル群を背景に、一人ぽつんと中央に座る小供の姿の写真でした。

牛腸茂雄は、小供を撮った写真が特に人気のようです。彼自身は持病があったため幼少期はずっと家に居て、鏡に外で遊ぶ小供達の姿を映しては、自分もそこで遊ぶ空想をしていたそうです。大人になった彼が写した小供達の写真は、楽しく元気な様子で写っているものは撮影者との間に距離を感じるし、彼の普通と違う容姿を見てこわばった表情をした小供の写真も少なくない。(レインの『自己と他者』を読んでいたという彼は、その名も『Self and Others』という写真集を出しました。写真は、自己と他者の関係を写すのはもちろんですが、時に自己と対峙する自己となり、ついには他者の不在にもなり得ると思います。)
彼は、元気に遊ぶ小供達に対し憧れに似た気持ちでいたとのことです。

『Self and Others(セルフ・アンド・アザーズ): 牛腸茂雄写真集』未来社、1994年
『Self and Others(セルフ・アンド・アザーズ): 牛腸茂雄写真集』未来社、1994年

須田一政の「Childhood Days」、こちらも小供達を撮った写真集です。興味深げに、あるいは不安げにカメラを見るこども。カメラを意識せず、ただ自分の時間を生きるこども。
人生後半に差し掛かり、かつ幼少期のトラウマを乗り越えてから出逢ったのは、今がまさにそのタイミングだったのでしょう。
後書きの言葉:
「世の中の誰もが自らの幼年時代を懐かしく思えるとは考えない。幼年時代にもそれなりの悲しみや苦しみがあるのである。ただ、幼年の時をはるかに過ぎ、人生の終焉を意識するころになると、誰もが幼い自らをまるでわが子のように愛おしく感じられるのではないかと思う。」


『Childhood Days_A 』須田一政
『Childhood Days_A 』須田一政

上記二冊は、空白の子供時代を補填するような意味合いもあったんだろうな、と。私もやっぱり少しだけ、そういう風に写真を撮っているところが今もあります。トラウマケア前後で変わったことは、そこにいる小供達をただそこに居る、在るものとして見つめられるようになったというところです。(同一化や勝手な感情移入をしなくなったということも含みます)

そして最後に。石亀泰郎の『ふたりっ子バンザイ』という写真集です。1960年代に刊行されたものですが、最近になってから知りました。二人の我が子の日常の写真群、二人の子供達がただのびのびとしている写真群です。日常に恐怖のない子供というのはこういう表情をするのか、、と、目から鱗が落ちそうです。


『ふたりっ子バンザイ』石亀泰郎
『ふたりっ子バンザイ』石亀泰郎
 

トラウマ治療以前なら、学ぶための材料にしたり、そうしているうちに自分の境遇との違いに打ちのめされ辛くなってしまったかもしれません。今はただ写真的興味と、あとはいいな羨ましいなという気持ちです。

世界と私の境界線を、今日も心地良く享受しています。