禅とお日様 日日是好日

禅はお日様のようにそのときそのときで表情が違います。禅の教えもお日様もそこにあって、でも、そこにいる人にとっての響き方、感じ方はコロコロ変わります。私にとって禅は自分の状態に気づかせてくれるものです。禅語に触れ、その言葉からいろいろ考えることで自分がどう感じるか、心が晴れる日も心が曇る日もあります。

「日日是好日」(にちにちこれこうにち・にちにちこれこうじつ)

私は普通の日もいい日になる、いい日かどうかは自分次第と解釈しています。

先日「弱さがあっても怖さのない社会をつくる」というセミナーを聴きました。弱さがあっても怖さのないってどういう感じなんだろうと思いつつも、怖さに敏感な私にとっては怖さのない社会にあこがれていることから聴講を決めて、当日に備えました。が、タイミングが合わずリアルタイムでの聴講が叶いませんでした。

その日の夜、期日限定で動画配信のご案内があり、休みの日にゆっくり聴講しました。その中で大きな気付きがありました。ジャッジをしないということの重要さです。ジャッジをするから、ジャッジをされるから、それを気にし過ぎてしまうからいろんな感情が湧き、まみれてしまうのではないかという問いかけでした。

好き嫌いのジャッジ、良し悪しのジャッジ、得意苦手のジャッジ、すべて自分が自分の中にある判断軸で決めています。人にジャッジされるかもというのも、結局は自分がそう判断しているということになります。自分もジャッジしないし、相手のジャッジに左右されない。今まで怖く感じていた怖さは自分の思いこみかもと気付かされました。

よく言われることではありますが、「嫌なことがあっても、そこから何かを学べばいい」とよく言います。でも、正直なところ、私はそこから学ぶ気になれませんでした。「嫌なこと」なので「嫌」ということにとらわれてしまっていて、いつのまにか自分の中で受け入れたくないとしていたのだと思います。ジャッジをしていたのです。

ジャッジをしていることに気づいた私は、それを手放して客観的に俯瞰的に物事をとらえるとどうなるかを考えてみました。得意苦手のジャッジを手放したら、苦手なコツコツ作業にも集中して取り組めました。良し悪しのジャッジを手放したら、嫌なことであってもそれはやっておくほうがよさそう、嫌なことだからじゃなくて本当にやらなくてもよさそう、と気づくことができ優先度も考えられるようになりました。

私はニンジンが嫌いです。ニンジンの匂いが苦手です。野菜不足が続き、野菜ジュースなら気軽に飲めるかもと思い、買いに行きます。そんなとき、たまたま棚にある野菜ジュースがニンジンをベースにしたものしかないこともあります。そんなとき、私はまた今度でいいやと先送りにしていました。でも、自分の身体のことを考えると野菜をとるか野菜ジュースをとるか、結局買うのをやめてしまいます。

仕事でも同じです。あの先輩が嫌だから、あの先輩のいうことを勝手にジャッジして、否定したり、避けたりしていませんか。その結果、今やるべき仕事が進んでいないときに、その先輩のせいにしていませんか。その前にできることをやりつくしたのでしょうか。

これは私自身に向けた言葉です。実際、私は同僚の指示を理解できず、理解できるように説明しない、説明する努力をしないその人を否定し、拒絶していました。その結果、情報共有に限りがあり、自分で仕事を進めることの限界を感じ、結果プロジェクトのスケジュールの遅延につながりました。もし、私がその先輩のいうことをジャッジをせずに聴いていたら、相談できていたら、プロジェクトはスケジュール通りに進められていたのかもしれません。

ジャッジをしていることに気づいたとき、ジャッジをしていないとどうなるかに意識を向けて、良し悪しではないフィードバックをするだけで関係性を変えることができる気がします。プロジェクトを進めるために建設的な交流ができるかもしれません。

身の回りの人との関わりの中で、良し悪しのジャッジに左右されても、左右されなくても「日日是好日」です。良いことがあっても悪いことがあっても全部、決めているのは自分。そのまま、ありのままに過ごしてみませんか。

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