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息苦しくなる生産性信仰

私には、人間コンピューター並みの処理能力を持つ家族がいる。いろんな会社や団体の立ち上げや運営に関わっていて、会うたびにパソコンに向かって忙しく作業していて、頭の中で思考がカチカチと動いているのが聞こえてくる。常に何かについて考えていて、ゆっくりしているところをあまり見たことがない。

そんな姿を昔から見てきたからこそ、学生の頃に勉強の癖がついたし、今でも仕事で役立っている。その一方で、私もそうならなければという焦りから、常に何かをしないといけないという思考の癖がついた。学校や会社などいろんな環境下で、その考えはさらに補強されていった。常に先のことを考え、計画立て、スケジュール管理をしながらテキパキとタスクをこなしていかないといけない。この動けば動くほど良いという価値観が、今の私の息苦しさの原因になっている。

頑張りたいかどうかは本人の自由。しかし、生産性の高い人ほど生きやすい世の中って、少し偏っているんじゃないかな、と思う。学校では文武両道が唱えられていたし、会社ではスピーディーに結果を出す人が優遇される。本屋を歩けば、電車の広告を見れば、真っ先に○○の攻略法、仕事術、成績アップといった見出しが目に飛び込んでくる。スピード、効率、努力。常に何かを生産していないといけないというメッセージが共通して伝わってくる。

生産性の高さはとても良いことだけど、一人一人能力やキャパは違うし、当然うまくできない人もいる。それは自然なことで、恥じることではない。なのに、素早く、効率的に、たくさんできる人を理想とし、それを広く押し付けるのはあまりにも非現実的じゃないかな、と思う。

休めない日本人

デンマーク語で「hygge」という言葉がある。居心地の良い、ほっとしたひとときのことを言うらしい。日本語では直訳はなくて、似たような意味合いで「休み」という言葉はあるけど、それは「労働」の対。いずれ動くために取らないといけない一時的なもの、ともとれる。言葉からQOLを感じ取れないのは私だけだろうか。。。

日本人は真面目さや勤勉さで有名で、美徳としてみられることが多い。でも生活のバランスが取れないほど、心や体を壊すほど頑張ってしまうのは、そもそも止まることを良しとしない価値観がまだ根強いからだと思う。あくまでも動が主役で、静はメンテナンス程度に使うもの。休み方一つとっても、おでかけは「リフレッシュ」と呼ばれるのに、何もしないインドアタイムは「ダラダラ」と呼ばれてしまう。休み中でさえ、静的なものは肩身が狭い。

私も例外じゃなくて、スケジュール帳はびっしり埋めがちだし、何もできなかった一日の後は罪悪感に苛まれてしまう。この長年無意識に従っていた生産性信仰を脱するのは、そう簡単じゃない。

人間は機械じゃないし、効率が全てじゃない。なのに様々なところで機械のパーツのように見られ、一定の生産性を求められてきた。その弊害がいろんな人たちのストレスや生きづらさに表れていると思う。もっとゆっくりすること、立ち止まることを歓迎する世の中になったら、多くの人が呼吸がしやすくなると思う。

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