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容姿の悩み

 私が絵で描く人は、クロークのような、髪や体を隠す服を着ていたりする。とくに宗教的な理由もなくなぜクロークをまとった人たちを描くのか、今までよくわからなかったけど、ずっと続いていた容姿とのトラウマが関係しているのかな、と気づいた。

 私の体は世間でいう「女性らしい体」とはあまり言えない。成長期を経ても体形はさほど変わらず、身長も高くならなかったので、一般的な「大人の女性」像とは程遠く、自分の容姿に魅力を全く感じたことがなかった。学校に行くたびに周りの子と自分の体形を比較し、鏡を見ては自己嫌悪に浸っていた。

もっと痩せたら「女性らしく」なる、「大人っぽく」なると思い、高校生の頃にダイエットをしたことがある。もともと瘦せ型なので必要性はなかったのに、食べる量を極端に減らし、激しい運動をし、毎日体重を細かくチェック。数字が減ると快感に満たされ、増えるとさらに食事を制限。そうやって無我夢中に体重計をにらめっこし続けてどんどん自分を追い込んだ結果、半年後に体重が30kg代に。と同時に、毎月来るはずの生理が半年も止まっていることに気付き、病院に行くと、痩せた影響とのこと。

周りからは「痩せた?」とよく心配されるようにはなっていたけど、鏡を見ても、自分の体が変わったようには見えなかった。まだ痩せたいところは太いままで、太らせたいところは痩せたまま。そのとき「もっと痩せなきゃ」と思ってさらに続けていたら、取返しのつかないことになっていたと思う。幸い、「体形が変わらなくて、体を壊すだけなら意味がない」と思い、直ちにやめる冷静さは残っていた。

ダイエットはそのとき終わったけど、容姿のコンプレックスはずっと続いた。自分は勉強ができた方だったし、理性のある冷静な子だったのに、なぜか外見が「女性」らしく、「大人」っぽく、「魅力的」でないと誰にも好かれないという、説明のつかないおかしな思い込みにずっとうなされていた。

たぶん、私だけでなく、色んな人たちが無意識に「こうあるべき」という価値観を取り込んでいると思う。とくに容姿に関して。鏡に映る自分を見て、心の中で自分をけなした経験は誰にだってあるだろうし、とくに女性は多いと思う。

テレビやネット、芸術の世界でも、ある決まった「美しい女性像」が映し出されている。大抵は、すらっとしているけど痩せすぎず、身長は高すぎないけど低すぎず、太りすぎていないけど肉付きはよく、控えめだけど色気をはなつ女性たち。女性の容姿に対する世間の目は厳しくて、クライテリアは数え切れないし、チェックリストをすべて満たしたところで、大胆に体を出すと辱められる。こんなに窮屈で矛盾だらけな要求に従おうとするだけで息切れになる。

身近な人たちだって、同じくらい残酷になれる。「もっと体を盛りなさい」、「ショートヘアは女性らしくない」「カーブがないからこの服は合わない」などなど、自分のためを思う身近な人たちこそ、一番厳しい審査員だったりする。日々自分でつついている傷を、信頼している人たちから更につつかれると、より痛くて、傷も深まる。

今わかったのは、私や周りの人たちがとらわれていた「女性らしさ」は、たった一部の人たちの価値観だということ。本来、女性らしさはそんな限定的なものではないし、無理に型に当てはまる必要もない。そもそも今の時代、性別を二つにきっかりと分けて、「女性らしさ」と「男性らしさ」の二軸で人を測ろうとすること自体、もう古い。

本題に戻って、なぜ体を隠すクローク姿の人たちを描くのか。もう私自身が、体の性別に伴う色々なしがらみに囚われたくないからだと思う。

体をあえて露出することで自分の女性らしさや力強さを表現している方々はいて、それは全く否定しない。長らく羞恥心と結びつけられてきた体の部分を大胆に見せることにはパワーがある。でも、そのような方々が誇っている体のカーブをそもそもを持たない自分にとって、露出=パワーという方法にはあまり共感ができなかった。

作品の中でえがく人たちは、世間の性別のものさしで測られたくないし、そもそも性別にとらわれてほしくない。男性でも女性でもない、性別を超越した人たちであってほしい。その表現として、クロークを着せているのかな、と思う。

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