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世界中のやさしい人たちの話②

オーストラリアにいた時に人生で1番悪いことと1番良いことが起きました。むしろ悪いことが起きなければ良いことも起きなかったかもしれません。

色々あって心身ともに人としての底辺で生きていた時、オーストラリアではよく砂漠に行方不明になりに行く人が多いと聞いて行ってみようかと思いました。でも砂漠まで行くお金がなかったので諦めて、毎日小麦粉を水で溶かして焼いたやつを食べて生きていました。

その時の家主の知り合いで近所に住んでいる夫婦の家に遊びに行った時、面識もなく、ほとんど話さなかった私に彼らは、もし今不幸せと感じているならうちに住みなさいと言ってきたのです。

私はしばらくビックリして考えたけど、幸せではないので彼らの持つスペアルームを借りることにしました。家主は急なことに激怒でしたが、彼らは心配ないと言って対処してくれました。

彼らが何者かという話はすごく長くなるのでまとめると、ダライ・ラマを尊敬するエイズが陽性だけどめちゃくちゃ長生きしていて人の為に活動して勲章もらったりする元モデルとクオーターアボリジニのヒッピー夫婦です。

2人とも個がとても強いのに、2人で一つ感も強く彼らの家には長年の友人たちが毎日やってくるのです。病気の為チェックに来てるのもありますが、誰か困ってる人がいると来れるようにもなっています。友人たちももちろん個性豊かです。画家から弁護士、女も男も年齢も職も関係なく集まってきます。

彼らは、この冷蔵庫のもの全部食べて良いよと餓死手前だった私に笑って言ってくれました。あんまり仕事がなかったので家の掃除や手伝いをなるべくしてみんなの会話を聞いて英語の勉強にしたり、普通に過ごしているつもりでした。

でも後から思い返すと、私は半年くらい毎晩寝ようとすると理由なく涙が流れていました。その時はあーまたかと思ってやり過ごし、何も感じてないのになんで泣くんだろうと人ごとのように考えていました。

ある日、彼らの友人の1人が遊びに来ていて、いつも通りハローと挨拶したら、彼女が急に、あっMiaがついに笑った!と叫んだのです。私はこの半年間笑ってるつもりが笑えてなかったのです。よかったー、心配してたんだよと言われた時、なんだか現実に戻ってきたみたいな気分になったのを覚えています。

正直この半年くらいの記憶はあるような無いようなで、その後に分かったことの記憶の方が鮮明なので、自分だいぶやばいとこまで行ってたのではと思います。それは彼らしか知らないし、そんなやばい子にずっと普通に接しててくれていたんだと思うと涙が出ます。

この時期、彼ら以外にも私を救ってくれた人たちがいます。みんな同様にこんな状態の、英語もつたない日本人の話を聞いてくれて、特別扱いすることなく同等に扱ってくれました。

何回かなんでこんなに親切なのかって泣きながら聞いたのを覚えています。みんなの答えは、親切にはしてない普通のことしかしてない、でした。嫌いな人には何もしないよと笑っていました。今ではよくわかりますがその時は不思議でしかありませんでした。

時間はかかりましたが、自分が回復したと実感した時、改めて彼らへの恩返しのためにも精一杯生きようと思いました。

数年前、夫婦でベルリンに遊びに来てくれました。ヨーロッパにも友達の多い彼らは、息子の友達と私のいるベルリンにも立ち寄ってくれたのです。次に私がオーストラリアに帰れる日まで元気に過ごしていてほしいと思います。

よくいろんな国に住んできたのでどこが良かったか聞かれるのですが、私にとってはダントツでメルボルンです。それでもそこに住む術が見つからなかったのはきっと他の場所ですべき事が私にはあるんだろうと考えています。特にベルリンではそれを実感するような出来事が多いです。

ちゃんと役目が果たせたらいいなと思います。


では、よい1日を!


Mia


読んでいただいてありがとうございます!コロナのロックダウンからギリギリ食べれる生活なのでサポートは私の延命に繋がります。よろしくお願いいたします!