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日本語の私、英語の私

私はアメリカの大学に在学中である。

そして在学していれば授業は全て英語で行われるため、ある程度英語もできる。

すると英語について聞かれることが多い。私自身2言語と暮らして数年経ち、様々な発見があった。

今回はそんな2言語と私との関係性を考えようと思う。


私の英語レベルについて

「アメリカの大学に通っています」というと、ほぼ100%で言われるのが
「ペラペラですか⁉」

私の偏見では、アメリカの大学に通っている日本人の9割は「はい」と答える。

一方、私は何度聞かれても「話さないと生き延びられないので、生きていける程度には…」と答えてしまう。

なんというモヤモヤとした回答。

でも、「ペラペラ」という表現自体、モヤモヤとしている。

ペラペラが「ネイティブレベル」というのであれば、日本語アクセントが強い私は当てはまらないと思う。文法ミスも多い。

だがもし「ペラペラ」が質はどうあれ自分の意見をベラベラ話せるという意味なら多分ペラペラだ。私は英語でも、話が長いし話すのが好きだ。

しかしながら、私が英語レベルをきかれて上手く返せないのは、この「ペラペラ」という言葉のペラペラ加減の他に、もう一つ理由がある。

私は英語に対して非常にコンプレックスを持っている。

私は日本語訛りが強いだけでなく、ボキャブラリーが貧相である。よく同じ大学に通う日本人に「え、この言葉の意味知らないの」と言われる。ボキャブラリーが貧相な上、週に数百ページの英語で書かれたテキストを読んでいるにも関わらず、私のボキャブラリーは貧相だ。

ところで英語の改善に向けTOEICを受検したところ950点をすんなり超えてしまい、あまり語彙を増やすことなく終わってしまった。TOEFLやIELTSはあまりの金額で受けられなかったが、せめてDuolingo English Testにしておくべきだったかもしれない。

少し脱線したが、要約すると、SNSで披露できるような英語レベルとはお世辞にも言えないが、一応4技能(読む・聞く・話す・書く)は全て出来る。

これが私の英語レベルである。

頭の中で考える時は英語なのか

結論から言うと、英語で会話している時は英語で考えている。だが、英語で書いている時は、あえて日本語で考えることもある。

先ほど申し上げた通り、私の英語レベルは4技能は一通りできるがボキャブラリーが非常に貧相である。

このボキャブラリーというのが、表現よりむしろ思考において重要な役割を持っている。

例えば、最悪・最高しかボキャブラリーが無ければ感情も応じて最悪か最高の両極端になりかねない。言語は単なるツールではなく、言語が私たちの精神を形作る面も兼ね備えているのだ。

では、私の貧相なボキャブラリーで熟考するか、豊富なボキャブラリーがあるのに加え英語を混ぜて使うこともできる日本語で熟考するか、どちらがいいのか。

やはり日本語の方が考えは深まる。したがって書く時は日本語で考えていることが多い。

一方で、話す時は熟考している場合ではないことがほとんどなので、英語で考えていることがほとんどだ。時々思考回路がごちゃごちゃになって意味不明な言語を話していることもあるが、それはバグだと思ってほしいところだ。

さらに、これは副産物ではあるが、ボキャブラリーが貧相であれば、話すことがシンプルになる。シンプルな言葉で話すので、無駄な言葉で飾ることがない。それによって、本質的でわかりやすい説明ができることもある。意外と悪くない。

そんなわけで、私は状況に応じて脳内言語をスイッチしている。たまにスイッチがバグることもあるが。

夢の中・独り言は英語?

夢の中はもうカオスの極み。ノルウェー人の友人が関西弁で話し、家族が英語で話している。しかも言っていることは支離滅裂。

夢に関してはこの程度でさして面白い話もない。

ところで独り言とはどれぐらいの人にとって日常的なものだろうか?

私は独り言が多い。考えていることが全て口に出てしまう上、自分で自分に話しかけていることもある。家族にはよく引かれている。

考えていることをダラダラ口に出しているだけなら、その時の脳内言語になることが多い。

ただ、自分で自分に話しかけている時は、日本にいる時は英語、英語圏にいる時は日本語で話すことが多い。

日本にいる時は日本語に慣れる。
母語であり、私の感情やアイデンティティーに対する影響も大きいのが日本語。逆にいえば、影響が大きすぎる時もある。
対して英語はすこし自分と離れている言語であるため、日本語でいっぱいいっぱいになっているときに英語で俯瞰しようとしているのかもしれない。

逆にアメリカにいる時は周りも自分も英語。母語ではない言語をずっと使うのはストレスもあり、日本語というなじみのある言語がでてくるのか。

心理学者に聞きたいところだ。言語哲学でも言語との一方的な関係を超えて相互的な関係が注目されるようになったわけだが、第二言語の場合、私たちはどんな関係を築いているのか。

日本語と英語でキャラが変わる

私はキャラが変わる。

周囲からは変わらないと言われるが、主観的な感覚では、テンションの上がりやすさ、話しやすさが変わる。

特に年上と話す時は、正直英語がいい。目上でなければ、英語で敬語を使うことはないため、断然腹を割って会話できる。ただ日本人が相手だと英語をジャッジされる気がして、日本人とは英語で話したくない気持ちもある。難しい。

とはいえ、周囲がキャラが変わっていないというのであれば、言語の問題ではないのかもしれない。言語に関わらず、キャラというのも自分と周囲の関係性によって変わるから、キャラを変えるのは言語ではなくコミュニティの方かもしれない。

ただ、自分と周囲の人を位置づける中で、言語は重要な役割を果たしていると思う。誰とどう関わるか、という点に言語が関わってくるのは個人的に興味深い。


そんなこんなで2言語を使いながらの生活も5年目を迎えようとしている。

理解すること、考えること、伝えること…

コミュニケーションのツールを超えて密接なかかわりを持つ言語

そんな言語と私の変化しつづける関係性をこれからも観察していきたい。




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