AIでなくて人間が文章を書く意味とは。
何も気負わず、いいことなんて書こうとせず、いやむしろただどうでもいいことを書いて出すことに慣れていきたい。ショート動画全盛の時代に、長文のテキストを書くなんて逆行しているかもしれないけれど、巡り巡って最後に求められるのはテキストになるような気がしている。ChatGPTもテキストがベースなわけだし。
2018年にこんなnoteを書いていた。まだライターとしてばりばり文章を書いていた頃だ。この中で私は、ライターの技能を6つに分けて紹介している。
「解説者」はもう、AIの方が優れている。必要な情報だけ入力すればあとは中学生にもわかるような丁寧な文章を書いてくれるだろう。「探索者」は、ネット上に無い情報を調べるのなら人間の需要は残っているかもしれないが、やがて凌駕されていくに違いない。「傾聴者」のスキルももはやAIで充分な気がするし、「カウンセラー」的なことも、もしかしたらAIのほうが生身の人間よりも上手になるかもしれない。「芸人」もAIがユーモアを学んだのなら、読者はそれで充分満足してしまうかも。
最後に残るのは「発掘者」か。肉体を、五感を使って世界を体感し、それを言葉に変えていく技術。それは、「書きたいから書く」という行為にも繋がっていると思う。感じてしまったのだから、経験してしまったのだから、知ってしまったのだから、それを言葉にして吐き出したい。
「私だけにしか書けないこと」なんてこの世界には無いかもしれない。自分で体感して書いたことだって、無意識に誰かを真似しているだけかもしれないし、ごくありきたりの感覚に過ぎないかもしれない。それでも、書くことにはたぶん、意味があるのだと思う。何の役に立たなかったとしても、書くこと、その行為を世界は求めている気がするんだ。
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