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何の役にも立たない文章を書くのが、私にとっての「薬」なんだ。

朝の一番集中力が高い時間にまず、文章を書く。誰のためでもなく、ただ自分が書きたいものを、書きたいままに。それをするのにnoteはちょうどいい場所だ。読者は私だけでいい。……いや、本音を言えば多くの人に読んで欲しいし、なんなら共感して欲しい。でもそれをゴールにはしない。私はただ気持ち良く書く、それだけ。

そんなふうにnoteを更新し続けていたら、とても調子が良い。それならばいつもはnoteを書く朝の時間に、書き直そうとしながら放置していた告知記事の手直しに取り組めばいいのでは?とふと思う。

さて、告知記事を書くのなら、いま一度マーケティングのおさらいをしよう。以前に買った本を引っ張り出して読み返す。物足りなくなり、新しく別のマーケティング教本を買う。読み込んでいるうちに、あれれ?私が力を注ぐ行為はこれでいいんだっけ?と思い始める。資本主義を超えたその先の世界。そんなものを夢想しているのに、こうやってコピーライティングをしようとしてる私は、資本のために自分を捧げちゃってないか?これはいかんと、今度は資本論の類書を読み始め、気がつけば読んでばかりで何も書かずに一日が終わっている。

何も書けなかった日はなんだか落ち込む。インプットだけなら結構やってるはずなのに、何にも進んでいない気分になる。一方で、何の役に立たない文章でも、中身の無い文章でも、とりあえず何か書けてさえいれば安心する。自分は今日もちゃんと生きているのだと思える。

そうか、いくら調子が良くなったからって、朝一から他人に読んでもらうための文章を書こうとしていたのが良くなかったのかも。それはそれで楽しい作業ではあるけれど、納得いくものを書こうとすれば停滞する。それよりも、吐き出し続けていたほうが気持ちは安定する。

坂口恭平氏の『自分の薬をつくる』を読んだ。彼は2009年に躁鬱病と診断されてから、処方された薬を毎日飲むようになった。けれど症状は治まらない。そこで、自分で「薬」をつくることを考え始めた。

薬とは「日課」だ、と坂口氏は言う。お風呂や歯磨きと同じように、毎日の習慣になる。新しい習慣を追加することで、体を変化させる効果を期待する。自分の薬をつくる=自分の日課をつくる、ということ。ただ、ここで「日課」というと少し堅苦しく感じる。できなかったら自分を責めてしまいそう。でも、「薬」だったら一日くらい飲まなくても落ち込まない。そんなふうに彼は説明する。

さて、鬱状態はどんなときに起きるか?それは、「インプットが歪んでいる」ときだと彼は言う。今まで好きだったものに興味がなくなった。外の世界に関心が向かない。生きている意味がわからなくなる。それは、過剰にインプットをし続けた状態なのかもしれない。言い方を変えるとそれは、「アウトプットを全開にする」モードになっているとき。薬となる日課とはつまり、アウトプットだ。自分の中に澱んでいるものを排泄するんだ。それが他人の役に立つとかは関係ない。とにかく、溜まっちゃったら出す。それだけ。

アウトプットのやり方は人によって違う。『自分の薬をつくる』という本は、2019年に開催されたワークショップをまとめたものだ。ワークショップの場は架空の病院で、坂口氏が医者。そして参加者が患者役。坂口氏はひとりひとりの悩みを聞き、処方箋としてその人に合いそうな薬を提案していく。ある人にとってそれは、音楽をつくることであったり、料理絵日記をつけることだったりする。坂口氏自身にとっての薬は、毎日書くこと。

 毎日書くことができていれば、心に余裕ができるので、いろんなことが楽にできます。というわけでまずもって書くことに集中する必要があるわけです。力をそこに注ぎたい。そこでどうするか。簡単なことです。一日のうちで一番体力があるときに書くこと。かつ、いろんな用事で揺さぶられないこと。この二点さえ守れていれば、書くことを続けることができます。

坂口恭平『自分の薬をつくる』(晶文社)より

そうか、ちょっと調子が良くなったからって、自分の薬をおろそかにするのはよくないんだな。調子がいいときこそ、愚にもつかない文章をダラダラ書くところから一日を始めよう。それが私にとっての薬であり、自分にも周りにも優しくあるためのコツなんだと思うんだ。


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