助けを求めても、負い目は背負わない。
日本人は、「未来」のために「今」を犠牲にしがちだ。
いい大学に入るために受験勉強をする。いい会社に入るために就職活動をする。そして一生懸命働いて貯金を貯めて、老後に備える。自分が本当にやりたいことを自由にできるようになるのは、この場合「老後」になってからだ。だから、自由に好きなことだけしている他人を見ると「老後みたいだね」なんて揶揄したりする。
老後、隠居、リタイア。世間ではそんなふうに呼ばれる生き方を、本当は誰でも今すぐ実現していいはずなのに。
なんで「今」を犠牲にして、来るかどうかもわからない「未来」のために頑張らなくちゃいけないのか。それは、「助けを求めることは恥だ」「困ってもきっと誰も助けてくれないだろう」とみんなが考えているから。
信頼なんてなくても助け合うタンザニア人
文化人類学の小川さやかさんの記事を読んだ。彼女はタンザニアで、「マチンガ」と呼ばれている零細商人を18年以上研究している。
その街を歩けば、「日本人ならたくさんお金を持っているだろう」と、次々に無心される。あまりにも頻繁に無心されるので、彼女は思いきって、切り詰めていた調査費をすべて、現地の人に分け与えてみたのだという。
私は、仲間の前でスーツケースとポケットを広げて、あるものを全部持っていくように言いました。そして「これで私は一文無しだから、これからは私の面倒を見てね」と宣言しました(本当は、万が一に備えて100ドルだけブラジャーの間に隠し持っていたのですが)。私は、ねだられる側を降りて、ねだる側に回ることにしたのです。
一文無しになっても、困ったことはなかった。それどころか、「お金にくよくよする生活」を手放せたそうだ。ご飯は誰かがおごってくれるし、バスにも無料で乗せてもらえる。服も誰かが毎日貸してくれるし、売れ残った商品をもらえるから、それを転売して欲しいものを買ったっていい。
日本で生きている私には、おとぎ話みたいに聞こえる。日本には「貸した借りは返す」なんて言葉があるし、いざというときに他人に助けてもらうには、あらかじめ信頼を築いておかなくちゃと思ったりする。社会の役に立っていない自分には、助けてもらう資格なんてない、とか。
マチンガはそんなこと考えない。自分が困ったときは、お金を持ってそうな人に「助けて」と遠慮なく言う。反対に自分が何かを持っているときは、他人に惜しみなく分け与える。「自分にはそんなことをしてもらう価値がない」とか、「助けたんだから借りは返せよ」とか、そういうことは思わないらしい。
もらっても「ありがとう」は言わないプナン族
その記事を読んでいて、ボルネオ島のプナン族のことを思い出した。プナン族は、人口約1万人の狩猟採集民(あるいは元・狩猟採集民)だ。立教大学教授の奥野勝巳さんによると、プナン語には「ありがとう」にあたる言葉が存在しないという。
プナンでは、与えられた物をすぐさま他人に分け与えられる人が最も尊敬される。そんな人物は「大きな男(lake jaau)」と呼ばれ、共同体のアドホックな(臨時的な)リーダーとなる。
彼らに所有欲が無いわけじゃない。できれば独り占めしたいという気持ちはあるけれど、それはよくないことだと子どもの頃から教えられる。
日本語の「ありがとう」の語源は「有難い(めったにない喜ばしいことだ)」というところから来ているのだと思うけれど、プナン族にとって他人から何かをもらうことは、「有難い(めったにない)」ことでは全然ないのだ。
何かをもらったとき、彼らは「ありがとう」と言う代わりに「よい心がけですね(jian kenep)」と答える。もらう人のほうが、なんか偉そうである。
狩猟採集民であるプナンにとって、分け合うことが生きる道だった。獲物が捕れなかった者は、他者から食料を分けてもらう。それは全然恥ずかしいことでもなければ、負い目を感じることでもない。
助けを求めても「負け」ではない
そんなふうに分け与え合う社会は、狩猟採集社会の中にしか残っていないのかと思っていたけれど、タンザニアでは商人たちが普通にそうしている。本当は日本でも、そんなふうに生きていけるんじゃないか?
助けを求めることは負けなんかじゃない。
むしろ、「助ける機会をつくってあげたんだぜ」というくらい、図々しく生きていきたい。
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