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世界を旅するアヒルこんな世界から連れ出してほしいと願った冬の日

2021年12月の中頃のことだった。久しぶりに大阪福島へラバーダックを見に行った。世界を旅するアヒル。お風呂で小さな子どもが遊ぶアヒルを巨大化したラバーダックくんはいつの頃から世界を旅しているのだろう。
巨大な黄色いアヒルがただ水辺を漂っているだけで、表情ひとつ変えないというのに、わざわざ見に出掛けてしまうほど心を引き付けられる。

 朝、このアヒルを見るためにわたしは阪急梅田駅から大阪駅前を抜けて堂島川を目指して歩いていた。北新地の西のはずれまで来るとなにわ筋を500メートルほど雑居ビルが並ぶ通りを南下する。川まで行けば西に向かってほどなく、黄色いアヒルが見えてくるはずだ。
阪神百貨店、ヒルトンホテル、ハービスENT。コロナ禍とは言え、きらびやかなクリスマスの街を早歩きでなにわ筋まで来た。瞬間、わたしはいつも通りのはずの大阪市内の風景にいつもと違う物を目にした。
雑居ビルがどこまでも続く通りを多くの人が行き交うのは普段の風景だけれど、片道六車線の左端の車線にずらりと消防車や救急車が並んでいたのだ。多くの消防士が走りまわっていた。
「火事か」
独り言が口をついて出た。
あるビルにはしご車のはしごがかけられていて、そのはしごにも数人の消防士がはりついていた。
通りのこちら側には心配そうに見つめるものすごい数の人々がいた。交通整理をする警官。そして放送局の四角い中継車のそばでマイクを手にしている記者らしき人やカメラを担ぐ人も不安気にはしごがかけられたビルを見つめていた。
そのビルの窓は焼け落ちてはいるものの煙や火は全く見えなかったから大した火災ではなさそうだけど、などと思っていると六車線をまたいで消防士が押すストレッチャーがすごいスピードで走ってきてわたしの目の前を駆け抜けて行った。焼けたビルからずいぶん離れた通りに止まっていた救急車に向けてストレッチャーは走っていった。
起こっていることがよく理解できないまま、野次馬で混雑する通りを堂島川へ向かった。歩けど歩けど、緊急車両の列は続いている。これだけビルが隙間なく並んでいる都会だとボヤだとしてもここまで大袈裟にしなくてはいけないのかな、と思いながら歩き続けた。

ラバーダックはいつもどおりの丸い黒目とオレンジ色のくちばしを表情ひとつ変えずに巨大な黄色い体を川の流れに揺蕩っていた。
 左から、右から、そして正面から。いろんな角度から見上げたり、すこし離れた場所から眺めたり、そして写真や動画を撮った。動画は撮った先からインスタグラムストーリーに投稿した。
 ダックのいる堂島川のすぐそばは放送局があり、川の向こうにはたくさんのビルに囲まれて美術館が見える。美しく造形された街だと思った。そこで多くの人が働き、生活している。
 川面は冬の太陽光を反射してキラキラと輝いていた。ちゃぷちゃぷと波打つ音。おだやかなお天気。かわいいダック。それを見つめ、写真を撮る人びと。
 平和な風景なのに。
 絶え間のない救急車両のサイレン音が響き渡り上空を数機のヘリコプターが舞い続けていた。平和な時間のはずなのに。不穏できな臭い空気がじわじわとたなびいているようだった。
 世界中がコロナ禍だというのに、ラバーダックはこのあとどこへ旅立つのだろう。
 わたしは黄色い巨大なラバーダックを心ゆくまで眺めたあと、今度は梅田の西側の堂山あたりをぐるっと回って30分ほどかけて梅田まで歩いた。途中、通りかかったビルの敷地内でテントを立てていた能勢の野菜売りから無農薬栽培のレモンを買った。このレモンを蜂蜜漬けにしてトーストにかけて食べよう、と思いながら、また歩いた。
 その間にも空にはヘリコプターが飛び続け、緊急車両のサイレンは止むことがなかった。


すべてが夢であればいいのに。
悪い夢だけれど。
お風呂上がりみたいな寝汗をかくようなそんな嫌な夢であったとしても。その方がマシだ。
2021年12月。60代の男が雑居ビル内のメンタルクリニックに放火し、あの瞬間にクリニックにいた多くの患者やスタッフ、医師が亡くなっていたことを冬の街を歩きながらスマートフォンに流れてくるニュースで知った。被害者に知り合いもいないし他人事だというのに、とてつもなく心を傷つけられながらなんでやねん、と何度も声に出して、涙をこらえながら歩き続けた。


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