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すべて赦す

こんにちは
今回はずっと下書きに眠っていた、映画『ドッグヴィル』の感想を投稿することにしました。
ラース・フォン・トリアーの最高傑作!!


ドッグヴィル

2003年公開。
これまでに『奇跡の海』『ダンサーインザダーク』など人間の様々な一面を描いてきたラース・フォン・トリアー監督の実験的作品。
9つの章で構成され、ナレーションが補足をしていくという小説ぽいスタイルなのがポイント。
舞台セット×小説 という組み合わせ、最高に面白い。

主演は『アイズ・ワイド・シャット』『ムーラン・ルージュ』などが有名なニコール・キッドマン。
また、彼女は『めぐりあう時間たち』で第75回アカデミー賞 主演女優賞に輝いている。
そんな演技力に評価のある彼女が本作で演じるのは、村に迷い込んできた逃亡者・グレース。
言葉が出てこないほどの素晴らしい演技。
彼女なしでこの映画は成立しない。


あらすじ

大恐慌時代の廃れた鉱山町ドッグヴィル。偉大な作家となることを夢見ていたトムは、ギャングに追われ迷い込んできたグレースを奉仕と引き換えに匿うことを町の人々に提案する。
提案を渋々受け入れるもグレースの優しさに心を開いていく住人たち。
しかしとあることをきっかけとして、住人の態度は次第に身勝手なエゴへと変貌してゆく──

徹底された主観

本作の見所はやはり画面の異質さだろう。

本作は山奥の過疎町を舞台とした作品ながらも建物は一切出てこない。というか観客には見えない建物が存在している。
単純な照明に照らされた撮影スタジオの床に白線を引いて、それぞれに○○の家、○○通りと書き、俳優たちはその舞台の上で2時間58分を通して登場する。ドアを開け閉めする動きも全て俳優たちの演技のみで演出されている。

ここが玄関で、ここが壁。
描かれていないはずの「世界」が観る側の想像によって浮かび上がっていく不思議。

塀も壁も無く、暮らしの境界線となるのは床に引かれた白線と最低限の家具、そして人間のみ。
全部丸見え。
たった壁一枚ないことで湧き上がってくる、閉塞感や緊張感が秀逸。

登場人物の他に見るものがないため、物理的、心理的にも様々なものが見えてくる。
人物の内面の心理を的確に見せるためのセットだと言っていいだろう。
遮る物体がないことで観客が登場人物の心理に直接迫ることができるということだ。

また、過疎町という「閉塞的」な空間に存在する壁の無い「解放的」な家、という構図が面白い。
閉ざされた世界で作り上げられた住民にしか通用のしない「秩序」。
一見、解放的な空間に見え清々しさすら覚えてしまうが、外界では一切通用しないような「無秩序」が広がっている。

見かけに騙されてはいけない。
自分の目で人間の持つ内面を確かめてみろ!
てことかしら。

大義名分

町の住人たちはそれぞれ個性豊かながらも一般的な善良な人間。毎日町のために働いて、町のために何かしようと考え、町を愛している。
また、ギャングに追われ迷い込んできたグレースも悪人とは程遠い謙虚で真面目な善良人間。
自分のことを匿い友人として慕ってくれる街の住人たちのために働き、町を愛していた。

基本、出てくる登場人物は善人のように描かれている。
どこにでもある、ごくごく普通の生活。

9章のうちの4章まではグレースと町の住人たちの掛け合いにほっこり、なんて場面もあったり。

しかしそう上手く行くわけない。
だってあの、ラース・フォン・トリアーだよ??
主演女優をいじめるのが大好きなトリアーがこんなほっこりハートフルな自慰行為ムービー作るわけない。

当然、5章からは一気に不条理展開に急降下する。

ある日、滅多に人の訪ねることのないドッグヴィルに警察が手配書を貼りにやってくる。
そこにはグレースの顔写真と共に、彼女がある銀行強盗事件に関与している旨が記されていた(ギャングが彼女を無理やり探し出す為に嘘の手配書を作らせた)
住人たちの話し合いにより、彼女を警察へ引き渡さず、これまで通り町へ匿うことが決まったが、代償としてグレースはほとんど一日中働かされることになってしまう。
疲労により彼女の仕事のクオリティはどんどん下がっていきミスも増え、彼女に対する住人の視線はどんどん冷たくなっていく。

善良であったはずの町の住人たちは変貌しはじめる。

人間のもつ牙が徐々に明らかになっていく。

閉鎖的だったからこそ秩序が保たれ安定した世界。
そこに迷い込んできた謎の女性・グレース。
「善良な人間」の持つ「邪悪な一面」の矛先が全てグレースへと向けられる。
酷な扱いを「本当は良い人たちだから」と赦してしまうグレースが切ない。
共に暮らしていく仲間、という関係から一気に奴隷かのように扱われる力関係の崩壊が見ていて苦しく残酷。

こうして文字に起こしていると、現実世界にも当てはまることが見えてくる。
描かれていることは世の中に溢れる普遍的なものだと感じる。

例えば学校のクラスはどうだろうか。
はじめは対等なクラスメイトとして日々を過ごしていた、しかし何か(事件)をきっかけにその対等だったはずのバランスが一気に崩れていく。

「あの子があんなこと言ってた」
「あの子がこんなことしてた」
「あの子ってさ、、、」

実は原因なんてどうでもいいのかもしれない。

人間は何かと優劣をつけたがる生き物だ。
「あの人はまわりと比べて劣っていて悪い」みたいな理由をつけて、たった一人の標的を集団で取り囲み楽しんでいじめはじめる。

「だってあの子は、そうされても仕方ない」
「本当はこんなことしたくないけど、仕方なく」

どこにあるのかも分からない大義を抱え、いじめという行為を正当化しようとする。

そうこれは、教室の秩序を保つための「正義の行為」なんだと。

そうしていくうちに、いじめられる側は、自分以外の大勢からの「あなたが悪いんだからしょうがない」という仕打ちが続くことで、判断基準は狂い、自分が受けている仕打ちを「当然の報い」と受け止めるようになる。

ドッグヴィルの誰もが、自らが至極真っ当であるかのように振る舞い、都合のいい言葉を使って自らの醜い行為を正当化しようとする。
そしてどんな仕打ちにも耐え、赦し続けるグレース。

本作で描かれていることとは、やろうと思えば何処でも、今すぐにでも起こりうる物語。
起こりかねない物語。
既に起こってしまっている物語でもある。

神の名のもとに大量殺戮を行い、正義の名のもとに爆弾を投下する。
人間の歴史において繰り返されている過ち、は「罪の正当化」からきているかのように思えて仕方ない。
「こうする他なかった」「環境がこの結末を導いた」などと赦し続けてきた結末。

私達は失敗から学ぶのではなく、失敗を赦し肯定する事しか行ってこなかった。
だから同じ過ちを何回も何回も繰り返す。

「人間は弱くて不完全な生き物だから仕方がない」

だから罪を赦す、赦してあげる、というのは間違っている。

傲慢

人間の持つ一つの面として「傲慢」がある。
威張って人のことを見下しているという典型的な傲慢もあれば、本作ラストで描かれる「赦す」というのもまた傲慢さゆえの行動なのだと思う。

「赦す」という行為がなぜ傲慢なのだろうか。

私は罪は罪にしかなりえないと感じる。
慈悲はあってもいいかもしれない、しかし裁きは必要だ。ただ赦してあげる、なんてことは間違っている。

環境や人間の弱さのせいにして「仕方なかった」と片付けてしまうのは本質を見ようとしていない証拠。
口だけの綺麗事を並べ、悪を正す勇気のなさによって、自らの良心を偽善によって騙すことによって、人間が人間を赦したという傲慢がドッグヴィルを恐ろしい町へと変えてしまった根本的な原因なのだと思う。
それこそが人間の弱さ。

人を裁くというのは自らを裁くこと。
罪には正しい罰を。
たとえ良心が傷んだとしても勇気を持って罰を与えなければならない。

そして、他人を罰する前に自分のことも見つめ直す必要がある。
自らの行動を客観的に見ようと努力する必要があるし、間違っていたことに直視して自らを罰しなければならない。
物事を客観的に捉えた時初めて物事の本質に気が付くことが出来る。

罪を犯すのは人間。
偽善に酔い裁くべき罪を赦すのも人間。

愛、正義、道徳、平和、自由、平等、博愛、、、
綺麗で立派な言葉を口にするとき、私達は考えなければならない。
口だけの言葉ではないだろうか、と。
言葉を盾に罪を犯し、罪を赦していないだろうか、と。
間違っていることを正す勇気がないだけではないのか、と。

『ドッグヴィル』より

最後までご愛読ありがとうございました。
赦すのではなく償う。
責任を負うということは、未来への償いだと思います。

※私は無宗教です、笑


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