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ラランド・ニシダ「母との遭遇」を読んで「親・家族について」考えてみる

「両親=仲良し?」

「あなたは両親のことが好きですか?仲が良いですか?」という質問に対して、
私はこの世の中の全員が「はい」と答えると当たり前のように思っていた。
もちろん私も両親と喧嘩する事もある。
だけど、親のことを人として「嫌い」という感情になったことはない。

しかし、世の中にはそうではない人もいると知った。
そのきっかけはニシダ(ラランド)さんとの出会いだった。

大学受験で失敗した時、病んでいた私は衝動的にYouTubeで「受験 失敗」と検索していた。そこでニシダさんの「人生終わったと思っている君たちへ【中退、受験失敗、留年…】」という動画に出会う。

そこからニシダさんのことを調べていくうちに、彼のYouTubeや出演される番組で何度も「親のことが嫌いだ」と公言されているのを耳にした。

その中でも特に印象に残っている言葉がある。
この動画内で視聴者の質問に答えながら、ニシダさんはこんなことを話していた。

「俺は親が嫌いです。(中略)たまたまだからね、(親は)クラスメイトみたいなもんだから。クラスメイトとうまくやれるかどうかとほぼ同じ。」

ラランドニシダ・うんこチャンネル「親に申し訳ないって思わないの?」2:24〜

この動画を見て、「親である=仲良し」という方程式が無条件に成り立つと思っていた私は衝撃を受けた。大切な親をクラスメイトと同等に考えるなんてできっこないと思った。

でもよく考えてみれば、私は今の両親を希望して生まれてきたわけではない。どの親の元に生まれたいかなんて選べる余地もなく、運命としてこの世に生まれてきた。
俗にいう「親ガチャ」を引いた結果、今の両親のもとに生まれた。

そう考えればニシダさんの「クラスメイトみたいなもの」という言葉が腑に落ちる。いくら親とはいえ違う生命体なのである。容姿も思考も行動も全部が異なっている。

「家族って、親って、なんだろう」
大学への往復4時間の電車の中で彼の動画を見ながら考えたが、答えは出なかった。


エッセイを読んで思ったこと


そんなことを考えながら本屋さんでこのエッセイを手に取り、真っ先に目次からニシダさんのエッセイを探して「母との遭遇」を読んだ。
(※ネタバレを避けるためストーリーには触れません)

「父と母のDNAが私を形作っていて、取り消すことも取って代わることもできない。」

ベスト・エッセイ「母との遭遇」ラランド・ニシダ

最後のページに書かれているこの一文が一番印象に残っている。

いつも当たり前に隣にいる両親の存在が急に不思議に感じた。
自分とは違う生命体が自分を形作っているという事実がそこにはあり、改めて考えると凄いことだなと素直に思った。


その日の夜、食卓を見ると祖母の得意料理のハンバーグが並んでいた。
祖父母とは一緒に住んでいないが、たまに手作りの料理を届けてくれる。

いつもだったら飛び上がって喜ぶが、エッセイを読んだ後の私はさらに言葉にできない複雑な思いが増した。
別に両親が嫌いなわけでも、祖母が嫌いなわけでもない。
むしろ家族みんな大好きで、祖母のハンバーグも大好きである。
でも、私には数えきれないくらいの人がバトンを繋いできた血液が全身に流れていると思うと言い表せない感情に支配された。人生で初めての感覚だった。

いつもなら大好きな家族揃っての夕食の時間だったが、私は親と一言も話すことができなかった。両親の仕事の愚痴が頭上で飛び交うだけで私は黙ってハンバーグを食べていただけだった。

撮影でカメラを向けられている時と同じ緊張感があり、第三者からの目線で食卓を見ているような不思議な感覚がした。
今までのものが全て虚像のような気がしてきてならなかった。
「自分がなんでここにいるのか?目の前にいる2人誰なんだろう?」と訳分からない疑問が生まれた。なぜか感情が溢れて涙が出そうになった。



そして、筆者のニシダさんはエッセイの最後にどう思ったのか。

両親のことが好きな私には、どう頑張っても両親のことが嫌いな彼の気持ちに完全に共感することは出来なかった。

でも、もし私がニシダさんの立場になったらどう思うのか、お母様はどう思ったのか、両者に声をかけたマネージャーはどう思ったのか、それぞれの立場について何度も何度も読んで考えた。

切ないような、寂しいような、なんとも言えない感情に押しつぶされそうになった。思わず本を両手で抱えた。


(余談だが)
私は大学に入学してすぐ、お笑いサークルに入った。

特に芸人になりたいわけではないが、「お笑いサークル」にずっと憧れていた私は、親に一切相談せずに入部してしまった。

それを知った親はもちろん反対し、
「お笑いなんてくだらない。ちゃんと勉強をしろ、帰りが遅すぎる。24時までに家に帰りなさい」と怒った。

でもサークルは大体21時に終わって打ち上げに行くと、家まで片道2時間なので平気で日を跨ぐ。
親は「もう勝手にしろ」と言い捨ててそれから何も言わなくなった。

思い返すと高校時代も好き勝手に生きてきた。
受験生の夏休みは球場のイベント企画や運営の仕事に熱中し、
大学受験3ヶ月前なのにも関わらず、大好きな動画制作に熱中しコンテストの表彰式や仕事仲間のパーティーに参加していた。
何年も塾にも通わせてもらい、中学受験までしたのにも関わらず何も勉強をしなく、成績は下がっていく一方だった。
そしてぎりぎり受かった大学に行くことになる。

私の生活に親が怒るのも当然だろう。

そう考えると私も筆者のニシダさんが大学を二度退学した状況に少し似ているのかもしれない。
その時私の親はどう思っているのかを想像し、自分が怒られて親に反発した時の感情を思い出しながらもう一度読み直してみた。

(…そんなことより私もいつか実家を出禁と言われたらどうしようと怖くなってきた。反面教師にして単位は絶対に落とさないようにしようと思う。)


親とは何か


・自分が選んだわけでもない男女の元に産まれ、その子は両親(養育者)から愛情を注いでもらえないといくら衣食住が整っていても死んでしまう。
・しっかり子供を育てないと罪に問われ、財産や資産についても子どもと結び付けられる。
・(大体の家族が)当たり前のように同じ屋根の下で暮らす。
・親には「監督責任」が課され、別の思考回路をもつ生命体であるのにも関わらず自分の子だという理由でが子どもが悪い事をしたら責任を負い、時には「連帯責任」として責任が生じる。

親子にはそういった特別な関係がある。

いつだったか忘れたが、「私(=親)の命よりあなた(=子ども)の方が大事だよ」と親に言われたことがある。
私も「親が死ぬなら自分が死んだ方がいい」と本気で思う。

もし私が死ぬ間際に一番最初に頭をよぎるのは両親の姿であると断言できるし、私は泣く演技をするときは必ず「もし親が死んだら」と考えている。
それくらい私にとって両親は唯一無二で大切な存在なのである。

でも最初に言った通り、親は「クラスメイト」でもあると定義できる。
いくら大切な存在である親とはいえ、自分とは違う生命体なのであり、容姿も思考も行動も全部が違う「他人」なのだ。

私は現在大学で保育学や社会福祉学を専攻しているため、家族や親との関わりについても学んでいる。
「家族」とは何か、「親」とは何か、この問いの答えを大学4年間の中で探し続けたいと思う。


将来、もし母親の立場になったらまた答えは変わるのだろうか。

数年後、保育士として親と違った目線から子どもと向き合うと答えは変わるのだろうか。

親が死んだら答えは変わるのだろうか。

答えは無いけれど、ずっと考え続けたいなと思う。


あとがき


このnoteを書いている途中に、「挿入ゲーム、𝑴𝑰𝑳𝑳𝑰𝑶𝑵へ…」というライプ(作家)さんのThreadsの通知と共にラランドのお二人が満遍の笑みで笑っているサムネイルがロック画面に出てきた。

この世界一くだらない飲みゲーでド下ネタをずっと言っている人が、
このエッセイを書いている訳ないと頭が混乱し始めた。面白すぎる。

作家のニシダさんしか知らない人はぜひ「うんこチャンネル(ニシダさんの個人チャンネル)」を見て欲しいし、芸人・俳優のニシダさんしか知らない人はぜひ「不器用で」を読んで欲しい!!です!!


【紹介したエッセイ「ベストエッセイ2024」】


【ニシダさん初の短編集小説「不器用で」】


【紹介したニシダさん個人のYouTubeチャンネル「うんこチャンネル」】

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約4ヶ月ぶりに書く内容とは思えないくらい重い話すぎました。
途中から結論がうまくまとまらなくて迷子になりかけたけど、書いていて楽しかったから良しってことで。

ニシダさんの話ももっと掘り下げて書きたい!
文章力上げたいから夏休みにたくさん更新したい!!
有言実行する!!

とにかく!みんなラランド見て!!



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