ワニのシュトーレン

 午後三時、閉園を知らせるアナウンスが響き渡る。それが爬虫類ブースまでくると、ワニはいつものように立ち上がり、ニット帽をかぶり、マフラーを巻いて、コートを羽織り、手袋をして、鞄を持ち動物園を出る。
 「おつかれー。」
 しんしんと降る雪に溶け込むように佇むシロクマが言った。シロクマはマフラーを首に巻いただけで、あとは何も着ていなかった。
 「おつかれ、寒くないのかい?」
 「ちょうどいいくらいだよ。」
 流石、雪国出身。口には出さなかったが、ワニはそう思った。
 「私は変温動物だから、こんなにカイロを付けないと外なんて歩けないよ。」
 ワニは両開きの扉を開けるように、コートの内側を見せた。
 「ワハハ、そりゃ大変だ。でも、ぼくも夏は氷を抱えないと外になんて行けないからなぁ。お互い様だよ。」
 「そうだね。」
 「じゃ、また明日。」
 シロクマは手を振りながら、自分の体よりも白い世界へと消えていった。シロクマのあとを歩く前に、暖かい空気が漏れていないか、コートのボタンを端から端まで改めて確認する。ワニにとって、寒い空気が体に触れることは死活問題だ。
 きっちりと防寒した足を、雪に、そっとのせた。ギュ。ギュ。ギュ。小気味よく雪が鳴る。歩き進めるたびに、ワニの体重で雪は圧縮されていく。動物園近くのバス停に並び、街の端まで行きのバスに乗る。車窓からは真っ白な建物が見える。ふわふわと落ちてくる雪の結晶。まるで天国から粉砂糖をまぶされているような。食いしん坊の天使が私たちを食べてしまいそうだ、とワニは思った。

 「街の端、街の端、ここからは折り返し運行となります。」

 ワニはバスを降りた。バスはワニが降りたことを確認すると、くるりとお尻を向けて、一つ前のバス停へと走っていった。雪は止み、すっかり日も暮れて、真っ白だった雪は紺色の空を反射して青くなっている。そんな真っ青な大地の中に、ポツンとオレンジ色の明かりが灯る家があった。ワニは歩みを進める。ギュ。ギュ。ギュ。オレンジ色に染まった家のインターホンを押すと、中から見覚えのある顔が出てきた。

 「やぁ、イナバ。」
 「待ってたよ。中に入って暖まってくれ。」
 ワニは、このイナバという男と一緒にお茶会をすることが、日常のささやかな幸せだった。暖炉の近くに用意されたテーブルに二人は座った。
 「今日はどんなお菓子を持ってきてくれたのかな?」
 イナバはニヤニヤと笑う。ワニは鞄の奥の方に手を入れて、透明な袋でラッピングされた、粉砂糖を“
これでもか“とまぶされた硬いパンのようなものを出した。
 「それはなんだい?」
 「シュトーレンだよ。もうすぐクリスマスだろう。だから作ったんだ。」
 「しゅとーれん、ってなんだ?」
 「まったくイナバはお菓子が好きなくせに、お菓子のこと何も知らないんだな。」
 「あはは、確かに。君に教えてもらうまで、マカロンもカヌレも知らなかったからなぁ。」
 「シュトーレンはドイツのお菓子だよ。クリスマスまでスライスして食べるそうだ。真ん中から切って、断面を合わせて保存しながら、ちょっとずつというのが向こうの食べ方らしい。」
 「へぇ。」
 そう答えると、イナバは立ち上がり、お湯を沸かし始めた。キッチンの棚の中からティーパックを取り出し、二つのマグカップに乱雑に入れる。あまりこだわらないのがこの会のモットーだ。沸いたお湯をマグカップに淹れ、袋からシュトーレンを出し、ワニの解説通り真ん中から切る。スパイスと洋酒の香りがキッチンに広がった。薄くスライスしたシュトーレンを皿に乗せ、ワニの前にマグカップと皿を置いた。イナバとワニは黙々とそれを貪る。
 「なかなかおいしいね。」
 「致死量くらいの砂糖を入れているから、あまり食べ過ぎるなよ。イナバ。」
 「うん、わかってる。」
 二人の間に妙な沈黙が流れた。
 「なぁ、なんでこんな山奥に住んでいるんだ?イナバなら街に出て、」
 「動物園勤務の恵まれた君に言われたくないね。」
 「でも、イナバなら。」
 「いや、もう諦めたんだ。いいんだよ、この暮らしが。それに。」
 イナバはカーテンを開けて、指を差した。
 「この景色が好きなんだ。」
 枯れ木の奥に、月明かりに照らされた山の輪郭がうっすらと見える。それはまるで。
 「シュトーレンみたいだろ?」
 イナバはとびきり微笑んで言った。
 「この景色が好きなんだ。春も、夏も、秋も、冬も。ここに住んでよかったって思えるほどね。」
 ワニは少し後悔した。自分の独りよがりの考えをイナバに押し付けてしまったこと。それに、何度もこの家に来たことがあるのに、この景色に気付かなかったこと。エンターテイナー失格だ、ワニはそう思った。

 「泊まっていくかい?」
 「いや、明日も仕事だからね。もう少ししたら帰るよ。」
 「そっか。送っていこうか。」
 「イナバの運転は恐ろしいからな、遠慮しておく。」
 二人は笑った。オレンジ色の明かりが、シュトーレンを照らす。クリスマスまで、あと少し。

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