他人の音が反響し過ぎてしまう

人の音は揺らぐ。

どうして揺らぐんだろう、この音は、なにを意味するんだろう。

あまりにも無意識のうちに、人から聞こえる音、を頼りに対人関係を築いてきたから、いま、意識してみると、言語化するのがとても難しい。

私は今自分を観察中で、今まで無意識に処理していた「音」の共感覚が、具体的には何なのか、見極めようとしている。

海外の共感覚グループに参加させてもらって、「共感覚」と一言でいっても、それを保持する「共感覚者」にとって、共感覚体験の意味は、大きく2つの側面があることに気づいたからだ。

ひとつは、良い(思いもよらない恩恵的な)側面。

「音楽を聞くとオーロラみたいな綺麗な色が見えてうっとりする」「波や雪から聞こえる音には癒される。この美しい世界を失うくらいなら、私は永遠に「神経疾患患者」(共感覚は病気に分類されていた歴史がある)でいることを選ぶ」

もうひとつは、悪い(自分の手には負えない厄介な)側面。

「ここ数日、頭の中の音楽が鳴り止まない。クラシックだけじゃなくて、パンクな曲もなんだ。うるさくて、眠られない」「人の悲しみの感情が三角で見える。三角をみると、私まで悲しくなる。その場から離れれば、悲しさは消える。だから、私は三角の満ちた部屋には決して入らない」

「共感覚」の特徴として、「自分の意志によるものとは違い、共感覚は自動的に生じる」ことと、「好き、嫌い、快、不快といった情動を伴う」が挙げられる。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/共感覚

自分でコントロールできる感覚ではないために、突然生じる「美しい」共感覚は、自分だけに与えられた特別な体験として恩恵に預かるが、一方で、自分には手に負えない「苦しい」共感覚に圧倒されてしまうことも少なくない。

英語では、「overwhelmed.」とよく表現されているが、私も、圧倒されてしまう、ことがしばしばある。

「共感覚」現象のメカニズムもいくつか説があるし、そもそも主観的事実である共感覚が、fMRIやテストを用いて客観的事実であることが科学的に実証され始めたのもここ数十年の研究成果だ。共感覚の持つ個別性もあって、あまりの捉えにくさ故に、なかなか情報が整理しにくい。共感覚者特有の「困りごと」に対して、もちろん薬もなければ、対処法が用意されているわけではない。

海外の共感覚グループでは、一人一人が自分自身に合った対処法(deal  with, handle)を自分で模索して身につける方向で、真剣な意見交換が飛び交っている。(自分で自分の処方箋を見出す点では、私が今も抱えているフラッシュバックや複雑性PTSD(?)を含め、共感覚に限らずその他のメンタルケア全般に当てはまりそうだけど)強すぎる「共感覚」に手を余している場合は、アートセラピーや音楽療法、ヨガ、知識を得て自分自身を知る、などで、この感覚と折り合いをつけようと、各々が一生懸命取り組んでいる。

私の場合、人から聞こえる音は、「パーソナリティ」と「感情」で説明がだいぶつきそうだ。

それで、気がついてしまった。

私は、人の感情の音に触れたとき、相手と同じ音になってしまっている。

私と他人との間に、「境界線」がうまくひけていない。どこまでが自分の感情で、どこからが他人の感情や意図の影響なのか、自分でもよく分からなくなってしまうことがある。

「その人の気持ちが自分にだーっと流れこんでくるんやねえ、どうしてかねえ」

昨年冬だったか。コロナ禍で失職したシングルマザーの苦しさや大変さを報道した記事を読んで、胸が苦しくなった、私は財布の紐を締めて、食卓にはもやし料理が並んだが、実際には我が家のエンゲル係数を落としたところでその記事の女性の役には何も立ってないことにはたと気がついた、援助するなら正しい援助の方法を模索すべきだった、不安になり損だった、不安になるより寄付をすればよかった、と話していたときに、精神分析家の先生が呟いた。その言葉の意味が、今になってようやく理解でき始めた。

「あなた『は』、傷ついたひとの話を聞くと、自分『も』同じように傷ついてしまうんですね」

最初のセッションで、「性被害を受けたことを20年間誰にも言わなかったのは、私の話を聞く人を傷つけたくないから。でも、先生は、傷ついた人の話を聞いても傷つかないでいられる訓練を受けてこられたんですよね?知識もあって、訓練も受けているから、私の体験を話しても、先生は大丈夫なんですよね?本当に話してもいいんですよね?」と確認したときに、先生から言われた言葉だ。

あのときは、その言葉の意味が分かってなかった。

そうか。そうなのだ。私「は」、他人の辛い気持ちに触れたとき、自分「も」同じ気持ちになってしまうのだ。

「柵を、立てようと思ったんです、他人と自分は違うんだって気がついて、その境界線が曖昧だと思った、だから、私は自分と他人との間に柵を立てよう、と思いました。」

そう言ったときは、

「柵を立てようと思った。自分が、居ることに気がついたんですね。自分、に気がついたから、他人との間に柵を立てようと思えた。まずは、自分、の存在に気がついたんですよね?」

と確認されて、ポカンとしてしまったが、なるほど、そういうことだったのか。

「ある意味、生まれたての赤ちゃんのようなものかもしれませんね。自分がいる。他人がいる。自分と他人は、別個の存在だ。そこに気がついたんですね。」

赤ちゃんまで戻っちゃう?とそのときは内心クスクス笑ってしまったけど、たしかに、激しい感情の音に触れたときの私は、赤ちゃん並みに、他人と自分との区別がついていない。

どうして、私は、他人と同じ気持ちになってしまうんだろう。

どうやったら、その音をせき止めて、自分は、その音にならずに済むのかが、真剣に分からなくて、困っている。

さっきも、子供たちが2人でケンカをしていた。私は、母として、調整役を務めたいと思う。

でも、2人の感情の音が、2人の言葉以上に私の感情にダイレクトに影響を与える。

怒り、悲しみ、困惑、攻撃、防衛、焦り、理解されたい、言い負かしたい、etc...

2人の持つ相反する感情が、私の中で同時に反響して、私の気持ちまでぐちゃぐちゃに入り混ざる。

とても冷静ではいられない。

板挟みになる。

それはさておき、、と、自分の冷静さを保った上で話し合いの場を提案できない。

それに、怒りの音は本当に大きくて高くてキンキンしてて、「怖い」のだ。近寄りたくない。

他人の音が静まると(気持ちが落ち着くと)、私の気持ちもウソみたいに落ち着く。

「エンパス」、「ミラーニューロン」、「HSP」というキーワードも拾っている。

これが何なのか、まだ説明がうまくつかないけど、ケンカの場面で私は本当に息苦しいし、親(大人)としての役割を果たすために相当の努力が必要で、とても困っている。

親とは言え、成熟途中のただの人間なので、こうあるべき正しい親像、があるわけでもないが、キョウダイとの関わりの中で自我を発達させ、自分とはどんな人間なのか、を知っていこう深めていこう、としている子供に対して、先を生きている者として、意義のある姿勢を持ちたいと願っている。

ケンカ、という意見の行き違いは、うまく議論の場に転換させることができたら、互いに自分自身を知るとか、譲り合いを学ぶとか、良い教育機会に発展できるのに、ひたすらもったいないと思う。

怒った子供に、同じくらい怒った気持ちで向き合ったり、感情の音の大きさに怯えて涙目になりながら「お願いだから落ち着いて、声より大きい音がして頭が痛くなっちゃうの」と訴えたり、「ケンカしないで、、、😭辛いから、そんなこと言われたら私も悲しいから、、、」と懇願してる場合ではない。

何か、something helps me を見つけないといけない。

【参考URL】

https://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/news/14/5245/?ST=m_news

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