心を保つためにTwitterや推しを利用した話

なんとなく、セラの話から昔の私を振り返ることになってこんな真夜中にTwitterのTLを濁らせてしまったのでこっちにも書いておくことにする。
(Twitterを荒らして、執筆を始めたのが真夜中で、書き上げたのは一眠りして昼です笑)

※いつもの如く筋立てをしていないので話の方向がコロコロと転がります。ご承知おきください。
虐待・自死・うつに関する記述あり。苦手な方は読むのをやめてください。


はじまり

私は昔、紛うことなき虐待を受けていた。
母親は私が嫌いだったようで、私が好きだと言ったものに対してはあらゆる言葉で否定し、学校の話などは聞かず、料理を手伝おうとすれば邪魔だから向こういけ……。お前みたいなのを産んだ覚えは無いとか、誰に似たんだろうな〜とか、両親の喧嘩は私がどれだけ無能でどちらに似たかを擦り付け合うような喧嘩だった。
よく甲高い声を出して怒り、げんこつ・ビンタ・三角絞め(普通に首絞めもあった)・ローキック・小6になっても『おしりを出しなさい』と言われて叩かれたこともあった。小学校中学年あたりから中3くらいまで、家が安寧の場所だと思えたことは無かった。
毎日泣いて、毎日死にたいと思って、ころしたほうがはやいかも、とも思った。心の中では何度も飛び降りのシミュレーションをした。目の前で飛んでやればトラウマになるかなとか、遺書を見つからないところに置いておこうか、とか。後悔なんてしないだろう、きっとアイツらは私が死んで清々したとか喜ぶんだろうなと思ったらこのまま生き続けた方が復讐になるんでは?なんて考えたのは、錆びたハサミを手首に当てて全く切れなかったあの瞬間だ。少しだけ、皮膚に血が滲む程度しか切れなかった代わりに、別の何かが切れた感覚がした。今までの私との縁なのか、堪忍袋の緒なのかあの時切れたものが何なのか分からないけど本当に一瞬、あの瞬間に別人のようになって、死のうと思うことをやめたのだ。
(父親はそんな母を超えるモラハラタイプなのでご想像にお任せする。)

セルフケア

さて、虐待真っ只中の日々の私はどう生きていたかと言うと、中学2年の頃に登録したアメブロとTwitterに入り浸っていた。
『ああ言われた』『こう言われた』などなるべく固有名詞を出さないように怒りだけを泣きながら書き連ね、言葉を絞り出した。
私の不幸中の幸いは携帯とパソコンが買い与えられていたことだろう。
このようにネットの海に吐き出すことで事態や気持ちの整理ができるようになった。一度目を瞑って深呼吸をして書き始める癖がつくと、これで客観的に捉えられるようになったのだ。

昨日Twitterに思い出しながら書いていて気付いたのだが、私は解離性同一性障害だったのだろうか。新しい人格こそ作らなかったが、私の心にはいつもその時の推したちが居て、現実的思考な推し・慰めてくれる推し・私を肯定してくれる推しなどにいつも心を守ってもらっていた。その度に泣いて、報われる日を信じて、誰からでもいいから愛される未来を夢見た。
当時の両親は精神科というものを『やわなヤツらが行くところ』『障害者が行くところ』という思想が酷くて、私が鬱になっていることもわからず、テレビに映る鬱の人に対して暴言を浴びせていた。私はずっと肩身が狭かった。

メンター

大学で心理学部に入って、多少の臨床心理を学んだ際に自分がやってきたことが療法としてある程度的確だったとわかって少し感動さえ覚えた。

今の私があるのは自分自身と対話することを止めなかったから。
自分と向き合い、何がしたいのか、やりたいことはあるか、常に考えることをやめなかったからだと思っている。
だってあの頃助けてくれたのは、学校でのいじめを見ていた友人らと、私がクラスの厄介者に噛み付いて泣かされたら慰めてくれた学年で1番怖い先生と、親との不和を話していた保健室の先生だけだ。
学年1怖い先生は理科の先生で、野球部の顧問だった。175~180くらいの背丈でガタイが良かった。学校中で恐れられる先生が、『お前みたいな考え方を世界の人全員が出来たら、この世界はもっと平和だったんだろうなぁ』と私の頭を撫でながら優しい声で言ってくれたのを今でも思い出す。あの時、初めて大人の人から慰めてもらえたのだ。涙が止まらなくて、『私は間違ったことはしてないんだ』とひたすら嬉しかったのを覚えている。
今でも彼の言葉は私の胸に刻まれている。

人間関係

あの頃からだろうか。
こんな私でもそばに居てくれる友人がいる。その子たちをずっと大事にしようと、自分を慕ってくれる相手には全幅の信頼を置こうと決めたのは。
私の人生に私を傷つける『余計な登場人物』は必要なくて、ただハッピーエンドであればいい。上澄みだけを見せて生ぬるい人生でいいから好きな人たちを集めて人生の脚本を書いていこうと思った。

自分にメリットのある人以外は情報を提供して貰えるようにある程度のコミュニケーションを取っておき、友人たちには甘え、職場では仕事の出来る姿勢を見せて信頼を得ることが得意になっていた。

人に期待することは無い。
期待しても心が疲弊するだけだから。
今ものすごく仲良くたって数年後に連絡が途絶えればモブになるだけ。裏切られたなら削除するだけ。怒りは無いし、引きずることもないのはこういう考え方だからだろうか。情は特にない。相手から貰ってなければ"無い"。そこに無ければ無いですね。

リーダーシップ

仕事もそうだ。
「これくらいは出来るでしょう」と思ったことすら出来ない人は本当に多い。基礎の基礎だろうと、出来ない前提で見ておいた方が「期待を裏切られて怒る」なんてことが無くなるから、周囲の評価は相対的に「優しい人」になる。単純な世の中だ。噛み砕かなければ伝わらなさそうな人には最初から、幼稚園児に説明するのより少しだけレベルを上げた状態から始めたりもする。
これを言うと『そんなに見下してるの?!』なんて驚かれるが、見下しているのではなくレベルを合わせているだけだ。見下す、という言葉には故意的な悪意があるだろうが。じゃあなんだ。子供を子供扱いすることが見下すことになるのか?私は大人だけど仕事能力レベル1の人に対してレベル1なりの説明をしているだけだ。そこに悪意も敵意もない。多分これを聞いて『見下している』と考えた人は、最初から相手に『これは出来るだろう』とレベルを合わせることもせず過度な期待をして裏切られるタイプなんだろう。育った環境によって『当たり前』が違う世の中だ。私からしたら、その『出来るだろう』→『なんでこんなことも出来ないの?!』の方が相手を見下しているようで不快だと思うがいかがだろうか。

なんでそんなこともできないの、は母親の口癖だったから言いたくもないっていうのもある。言わないようにするには期待をしないこと、と考え着いての今の思考だ。

反転思考

小5くらいから両親の性格を反面教師にして生きようと決めた。『普通の家はビンタをされない』と知った日から、私は自分の家が普通じゃないことを知った。
そして『あの人たちと一緒は嫌だ』と考えるようになった。暴力があることが当たり前だった世界から徐々に暴力を無くした。自転車での信号無視もやめた。親から言われた数々の言葉を反芻しては、嫌だと感じた言葉と真逆の言葉を言うようになった。不快な言葉を反転させたら周囲に笑顔が増えた。信頼が増した。メリットばかりだった。
歳を重ねると、先生やバイト先のオーナーに『どうやって育てたらこんないい子になるのかな〜親御さんに聞いてみたいわ』なんて言われるようになった。ちがうよ。私を育てたのは私自身だよ。あぁ、これも親の手柄になっちゃうんだ、世知辛いなぁ。子供はどこまでも子供なんだ。大人になっても誰かの子供。一個人として見られないのはなんでなんだろう。ばかみたいじゃん。こんなに私を傷つけた人間なのに。傷つけられた私はいつまでも報われない。かなしいな。いや、虚しいのか。

事ある毎に立ちはだかる『親』という存在は今でも厄介だ。『親』になる友人も増える歳になったから、尚更考える。
私は自分の子供を作りたくない。
同じことをしてしまいそうで、誰かに情をかけるのが苦手だから自分の子供という存在を心の底から愛してあげられるのかが分からない。
でも子供は好きだ。甥っ子や友人の子供は会う度に甘やかして世話ができるけど、四六時中一緒にいる存在が分からない。きっと私に子育ては向いてないから、多分望まない。望んだ時は、私が本当の意味でこの閉じこもった世界から抜け出せた時だろう。

さいごに

虐待というものは、家庭内で起こるものだから発見されにくく、子供は家が世界の全てだからおかしいと思わないことが多い。
また、私のように自分自身でメンタルケアをしていく方法は実に危うく、推奨ができない。うつ症状のある人が自問自答をするとより深みにはまって症状が加速する可能性がある。絶対に真似しないでほしい。