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2006 幽霊の靴2

 二週間前、将人は『家を売るんだって』と言った。
 将人の父親の真利さんが精神的に不調をきたして、家族で真利さんの実家へ戻ると決まった。
 真利さんは、将人によく似た背の高い人だった。
 真利さんが「お父さん」をやめてしまったのは、広告代理店をクビになったことがきっかけだった。
 真夜中まで働いていた真利さんが、会社を辞めて一日じゅうベッドで眠るようになった。将人のお母さんはしばらく真利さんのようすを見ていたけれど、やがて真利さんに仕事をしろと言った。
 それ以降、将人の家では喧嘩が絶えなかった。将人のお母さんは真利さんに病院を勧めたが、真利さんは自分は病人ではないと言って聞かなかった。どちらの味方もできなかった将人は、ぼくの部屋へ避難していた。

 真利さんが初めて家出したのは、寒い盛りのことで、そのときぼくたちは将人の部屋にいた。
 真利さんが家出した夜、ぼくらはベランダに用意してある靴を履くと、鉄柵を乗り越えて四角い鉄柱を滑り降りた。
 ぼくらの家は、碁盤目のように整地された住宅団地の中腹にあった。
 前のめりになって向かい風のなかを走っていく。耳元で風が唸る。全力で走っていると、胸が苦しくなる。
 ぼくらが真利さんを見つけたとき、真利さんはバイパスの歩道橋の上にいた。
 真利さんは交差点をぐるりと囲む歩道橋の手すりに寄りかかって、下を見ていた。歩道橋の階段へ走り出そうとしたぼくの手を将人が掴む。
 真利さんは交差点のまんなかで円を描いて飛んでいる白い鳥に目をやっていた。
 白い鳥は歩道橋の上まで飛び上がり、ジグザグに跳ねながら下へ落ちていった。
 それは剥がれたポスターだった。
 着地しようとしては舞い上がるポスターを、真利さんは目をキラキラさせながら見ていた。
 もう真利さんは誰もいないところでしか安心することができないのだ。
 将人とぼくは顔を見合わせると、音を立てないように階段を上った。

 真利さんはそれ以降どんどんおかしくなっていった。
 真利さんは会社の社長が自分の悪口を言いふらしていて、社長のせいで就職できないと言っていた。
 将人のお母さんが何度もそれは思い込みだと告げても、真利さんは聞こうとしなかった。
 その日から真利さんは深夜だけ近所をさまようようになった。ぼくらはかならず真利さんの後を追っていった。将人のお母さんは、ぼくらがベランダの手すりから外へ抜け出すのを見届けて家で待っていた。

 雨が降り出した。
 ぼくらはひたすら海辺を歩いていた。砂混じりの岩場は消えて、松林のハイキングコースが続いている。
 この松林の向こうには、クローバーを取りに来た公園がある。
 将人は動物小屋のうさぎにクローバーを摘んできて食べさせるのが好きだった。しかし、それを勝手にやるので動物委員からは目の敵にされていた。クラスの動物委員になればいいのに、とぼくが言うと、将人は委員だとそれが仕事になってしまうのでつまらないという。
 将人はぼくに負けないくらい変な奴だ。
 たとえば、将人には霊感があった。なので、真利さんが夜にあたりを徘徊するのは、幽霊になるのと同じだと将人は言っていた。
 幽霊はいつも悲しいことを背負っているから、かわいそうだ、と。

 真利さんが夜歩く理由は、何かに脅えていたからだった。
 セピアがかった夜空に、白木蓮の花が咲いていた。
「あそこの木が折れてるだろう?」
 真利さんは並木の白木蓮の枝が折れて垂れ下がっているのを指差した。
「これが警告なんだよ。だんだん家に近づいていってる」
「何の警告?」
 将人が聞くと、真利さんは硬い表情で呟いた。
「ぼくの会社の社長が就職するなって言ってる」
 ぼくらは顔を見合わせた。将人の目が細められる。
「あの木が折れたのは去年の台風23号のときだよ」
 ぼくは頭のなかの記憶をさらった。そうだったかな、と真利さんは不審げに首をひねっている。
「一章の記憶はいつも正確じゃないか」
 将人が言うと、真利さんはそうだね、と子供のように深くうなずいた。
「カズちゃんは何でも覚えてるからな」
 真利さんがふたたび歩き出した。ぼくらもその後をついていく。
 鬼火のような白木蓮の花がゆらゆらと夜の風に揺れている。
 ぼくには幽霊でもいいから、出てきてほしい人がいる。会いたい人がいる。
 お母さんが生きていたら、してあげたいことがたくさんあったのに、ぼくは何もできなかった。
 だから今生きている人を大切にしよう。ぼくは真利さんの背中を見上げてそう思った。

 雨に濡れながら、ぼくらはハイキングコースを歩いていた。
「そういえば、あの猫どうしてるかな?」
 将人はときどき猫のことを思い出す。
「誰かにたかってるんじゃないかな」
「あいつ図太いからな」
 将人はいつもそう言って満足そうな顔をする。
 学校の帰り道、コンビニエンスストアの駐車場で、ふらつきながら歩いている野良猫を見かけた。
 野良猫は、光の漏れる入り口の一メートル前で首をガクリともたげて横になった。
「こいつ死にかけてる」
 将人は急いでポケットの財布を確認すると、コンビニエンスストアでキャットフードの缶を買ってきた。
 倉庫の端でキャットフードの缶を開けると、猫がしっかりした足取りで歩いてきて、キャットフードを食べ始めた。
「何だよ、死にかけてたんじゃないのかよ」
 将人はおおげさに空を仰いだが、まあいいか、とうなずいた。
「騙された」
 キャットフードを食べ終わると、猫はコンビニエンスストアの裏へ消えてしまった。
「礼ぐらいしろよ」
 というぼくに、
「動物はウェルカムだからな、サヨナラが嫌いなんだよ」
「ウェルカムって何だよ」
「来たときは歓迎してくれるけど、見送りはしない。そんなもんだよ」
 キャットフードを食い逃げされた男は、変な理屈をつけてひとりで納得していた。

 猫といえば、こんなこともあった。
 ぼくらは夜中に真利さんと三人で歩いていた。
 後ろにいた将人が、急に真利さんの前に立って歩き始めた。
 小学校の角に差しかかると、将人はそこで立ち止まって座り込んだ。
 水路のタイルの上に、白い猫の死骸が横たわっている。
 口から吐いた血がまだ赤く、耳が引きちぎられて黒ずんでいた。
「あのときの猫?」
 ぼくが将人に聞くと、将人は首を横に振った。
「動物はサヨナラが嫌いだからな。何も言わないよ」
 将人は霊感で死んだ猫を察知したらしい。
「コンビニで袋をもらってくる」
 真利さんはコンビニエンスストアへ行くと、大きなビニール袋を片手に戻ってきた。
 ぼくらはビニール袋に猫を入れると、楠がそびえる公園の林に猫を埋めた。こんもりした山になった猫の墓に三人で手を合わせる。
「ほんとはここに埋まってるのは俺だったかもしれない。何でお前が死んで俺が生きてるのかよくわからないけど」
 真利さんが猫に話しかけた。
「今度は家に生まれておいで」
 この猫は、生きているあいだこの周辺をパトロールしていた。軌道が幾重にも残っていたのに、ここで線は途絶えてしまった。
 ぼくらは地上に自分の地図を描いている。それは遠く大陸をまたいで伸びたり、同じ点をぐるぐる回っているだけだったりする。そんな軌跡を時間が残していて、いつかぼくらはそれを辿ることができるようになるはずだ。
 ぼくらはいつかふたたび猫に会えるだろう。
 しかし、猫の結末は変えられないけれども。
 母を思い出して、ぼくは自分の手を握った。

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