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「非日常好き」が日常を充実させるための、ささやかな実験。

去る2月6日(日)、福岡県にある本屋さん「ブックスキューブリック」のオンラインイベントに参加しました。

イベントの中で、「なぜ人は本を読むのか?」という問いがでたとき。
ゲストの三砂慶明さんは、山本夏彦さんの言葉を引用して「健康な人は本を読まない」と教えてくれました。
「今が充実している人に本は必要なのか」と自ら問いながらも、結局、モヤモヤしている時に出会う本が印象に残るよね、というお話をしていました。

私は日常的に本を読むほうですが、本が必要ない人がいるのもよくわかります。

本なんかなくても充実した人生は送れるし、むしろ本に頼らなくても、日常の中にたくさんの感動や気づきがあって、それで充実感を得られるとしたら、なんて素敵なことでしょう。

すると、私はなんのために本を読んでいたんだっけ?という疑問が。

本は、自分の考えとは別のものに触れたり、非日常の世界に没入したりという体験を与えてくれます。
しかし、読書そのものは生活を充実させるためのものではないならば、どうすれば日々の充実をはかれるのでしょうか。

今回は、「日常を充実させるしくみ」について考えたことを共有したいと思います。

毎日充実している人は、何をしているのか?

今の社会情勢から、非日常の空間に身を置くことは私同様に難しいはずなのに、毎日が充実している人は、確かにいます。
その人たちは、日常の中に感動や気づきをたくさん見つけることができる天才といえるかもしれません。

先日、友人に、日々充実させる秘訣を聞いてみました。
すると、「やりたいことをやっている」とのことでした。

ここで、やりたいことを即答できる方は、この先を読まなくても大丈夫です。笑
ただ、その時の私はちょっと悩みました。

実は、やりたいことであるはずの読書も、最近積むだけで読まないことも増えていて、「自分のやりたいは精度が低いなぁ」という思いがありました。

というのも、私はつくづく非日常が好きで、しかも今の非日常はこのご時世、得にくいものだと実感したからです。

日常がなければ非日常はない

私は学生時代から音楽に関わっていたこともあり、演奏会用の衣装を着て、舞台に立ち、成果を発表するときの緊張感、高揚感は、何にも変え難いものがあります。

本にも似たところがあって、没頭しているときは著者の考えを自分のもののように思い、本来は今ここにない本の中の環境を身近に感じたりすることから、本もまた小さな非日常といえるでしょう。

日常から切り離され、普段とは違う環境に身を置く時は、ちょっとわくわくするものです。

古くから日本では、折り目や節目などの非日常を「ハレ」、反対に日常のことを「ケ」と呼んで区別してきました。今でも、おめでたい卒業式や結婚式などを「晴れの日」といいますが、ハレとはその「晴れ」に由来し、民俗学などで使われる概念です。
ハレは、古来は儀式や祭などが該当し、そこでは衣食住や振る舞いなどが普段の行動とは区別されたそうです。

ここではざっくり「非日常=ハレ」、「日常=ケ」としています。

今は、儀式や祭りといった本来の「ハレ」の行事は積極的にはできない時期とはいえ、現代の日本は、非日常的なことは本人次第でいつでもできます。

昔はお祝いの席にしか食べられなかった食事も、今は「プチ贅沢」と思えばいつでも食べられますし、住んでいる環境に飽きたら(今は時期的にちょっと無理かもしれないけど)気軽に旅行にも行けます。

非日常の空間では、いっとき日常のことを忘れることができます。
ただしそれは、日常と断絶しているわけではなくて、ひと続きにつながっているものです。

なぜなら、外食やおしゃれですら、普段から自炊で節約したり、服を洗濯して整えたりしていることなしにはできないものだからです。
日常がなければ、非日常もありません。

日常=美しくない?

非日常の場は美しく、感動的です。一方、日常はどうでしょうか?

私の日常といえば、自分で作ったものを食べ、最近はまだまだ寒いのでおしゃれよりも動きやすくて快適な服を優先し、買い物や生活もほとんど市内で済ますという、まさに日常な生活をしています。

そんな中、ひとときの外食や街へのお買い物という非日常は私を癒してくれますが、これもまた毎週末同じ場所へ行くしかない、となると、かなり飽きてきます。

私にとって一番問題だったのは、非日常を自分の外部に求めていることでした

私は仕事も買い物も家や市内といった近所で行っているため、物理的に生活圏とは違う場所に身を置くことが非日常になります。
しかし、昨今の社会状況においては、この部分を自分でコントロールできないため、ストレスが溜まりやすくなっていたのです。

陰陽をつける、というアイデア

最初の友人の話に戻ります。
「やりたいこと」でピンと来なかった私ですが、先ほどの「日常がなければ非日常がない」というアイデアが少し頭に残っていました。

というのも、最近読んだ本は、東洋武術の陰陽思想をビジネスに応用したものでした。

「相手が陰の時は陽によって勝ち、相手が陽の時は陰によって勝つ」といった武術の極意。
これをビジネスの場で攻撃的な相手との交渉に当たった時、理論武装して応戦するのではなく、むしろ傷ついた気持ちを表現することの方が相互理解を進めるといった内容でした。

私は、この陰陽のヒントを日常の中にも応用できないかと考えたのです。

何も「ハレの日」というほど大きな非日常でなくともいいから、今行っている日常的な習慣の全部逆をやってみて、それを交互に繰り返すことでバランスを取れるのでは、と考えました。

実際にやってみた

そこで、もう一度私の日常を振り返ってみました。例えば、以下のようなことが毎日あります。

  • 自炊中心のご飯。

  • 常に体温が低い。

  • 読書(インプット)が日常。

例えば、自炊。その逆は、今までは外食が主でしたが、「自分が作ったご飯じゃない」と考えれば、冷凍食品でもいいし、パートナーに作ってもらってもいい。

あとは、座っていることも多く、寒い長野県の冬に適応できずにいつも冷えていて、体温が低い生活をしています。
その逆、「体温があがる」ことといえば、お風呂と運動が良さそうです。
実際、冬に冷えた後の温泉はすごく心地いいですよね。
ただ私、あんまり運動が好きではなかったのですが、始めるまでは億劫なのに、やってみるとあんまり嫌ではないことに気づきました。

そして、読書というインプットに対しては、アウトプットが必要でしょう。
今回、なるべく本を参考にせずに自分の考えだけで文章を組み立ててみたところ、手帳に構想を書いているだけですごく楽しくなって、あっという間に時間が過ぎてしまいました。
「今は読書がやりたいんじゃなく、アウトプットがしたかったんだなぁ」と終わってみて気づく、という結果になりました。

今までは大きく「ケ」として溜め込んだ日常のストレスを、大きな「ハレ」の日という非日常で解消していた生活でした。

しかし、上記のようにたまに逆の行動をすると、日頃から陰陽のバランスが細かい波のようになって、大きな非日常に頼らずともスッキリします!

「やりたいこと」がときどき自分の意思を無視してしまう私にとっては、この「逆」の試みは、本心に気づくきっかけになりました。
やりたいことじゃなかったら、全然作業は進まないし、スッキリもしないんです。

非日常的なイベントに行けなくてストレスが溜まっていたり、今まで楽しかったはずのことが楽しくなくなったりしている人は、やってみてください!

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