『田中先輩の話』プロローグ
こんな暑い夏の夕方だった。
会社の田中先輩が同郷の人間だと知ったのは太郎が大阪支店に転勤して五日目の金曜日だった。
不思議な出会いだった。
太郎はゼネコンの営業部に転属となったのだが、当時の営業部には若い人間はほとんどいなかった。高度成長期にはインフラ整備の大型土木工事が天から降って来てそれをゼネコン各社は上手に分け合って皆がメシを食っていた。営業部員は大型土木現場の元所長や官庁からの天下りのOB達ばかりであった。右を向いても左を見ても定年間近の営業部長ばかりだった。
それでも先を見据え、会社の未来のために若い営業マンを育てるべしと考えた支店長の方針で、白羽の矢の当たった太郎は営業部に送り込まれたのである。
そんな中で田中先輩は唯一の三十代、三十の声を聞いたばかりの太郎の三つ年上の先輩だった。
田中先輩は誰とも口をきかなかった。営業部員でありながらいつも会社にいた。上司の話によると当時まだ珍しかった市街地再開発事業の担当であったがそこでの上司に潰されて営業部に戻ってきたとのことだった。
当時、社員を育てるシステムはまだ無く、会社には人を育てる風潮があったが、中には平気で気に入らない部下を潰しにかかる上司もいた。気の強かった田中先輩はとことん上司と喧嘩をしてしまったそうで、陰険なしっぺ返しでノイローゼにまでなってしばらく休職していたということだった。
最初から田中先輩は『太郎』と呼び捨ててきた。「太郎、何やってるんだ」転属したばかりの太郎はやることが無く、当時会社に一台だけ置かれていたコンピューターの前に座りマンション事業の事業収支を作ろうとしていた。
それは田中先輩の得意分野だった。
田中先輩は太郎のイントネーションが気になったようで「どこなの、出身?」と聞いて来た。「愛知県豊川市です」と答えると、「えっ、」と返ってきた。
田中先輩は隣町の出身だったのである。
金曜日の夕、終鈴と共に田中先輩とともに太郎は会社を飛び出した。そして向かった先は鶴橋のガード下の立ち食いの寿司屋だった。太郎が生まれて初めての鶴橋の夜となったのである。
そこから二人の付き合いは二十年に及んだ。教えてもらうことばかりが多く、太郎は田中先輩に何も返すことは出来なかった。
田中先輩が死んだ後、太郎は障害を持つ兄の納まり場所を見つけることが出来ず苦しみ、当時存命だった先輩のお父さまに頼った。お父さまは数代前の豊川市の助役を努めた方であった。
死んだ後も田中先輩に助けてもらっていた。
最期は自身の首を自身の手でネクタイで絞めて死んでしまった。
よほど強い意志がなければそんな死に方は出来ないそうである。
二十年の間にあった事はまだフツフツと音を立てて発酵している。
いつか昇華できたあかつきには私の知る田中先輩の人生をまとめたいと思っている。
その時初めて田中先輩の供養が出来るのであろうと思っている。
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