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我が人生に悔いは無く

この年齢まで生きると、まあ自分の先が見えてくる。誰でもそれは同じだろう。ただ、それを満足するかしないかは、誰もが同じではないだろう。
ああ、あの時にああすれば、こうすればと振り返り考えるのが一般的なのかも知れない。
私にもそんなことがないわけではない。もともと大学には行くつもりは無く、レールに乗る人生が嫌だった。とにかく一人で生きていくことが目標であった。その到達目標が初めの頃は定まることは無く、とにかくまずは肉体労働が生きることと思って信じて疑うことのない時期があった。そして、それは私の生育環境に起因し、そこからの逃避以外の何ものでもないことは自分でわかっていた。魚市場で働き、中華の調理師を目指し台湾で黄絢絢に諭され、間違って大学に行ってしまった。でもそこで合気道に出会い、生れて初めて師と仰げる人間に出逢えた。その師に「偏るな」と言われサラリーマンになりゼネコンに入社し本当の世の裏側を教えてもらった。バブル崩壊とともに傾いた会社から飛び出し、1年間スコップを握り息子を育てた。不登校だった息子の復帰とともに大阪の鉄道子会社の設計事務所に拾われた。そこでは「固い頭の会社の殻を破ってくれ」と社長のミッションを受け、グループ外からの受注に努め、技術陣の他流試合の場を作ってきた。しかしある学校法人から「君のグループバス会社の通学用のバス路線を拡充してくれ」と言われ、利用客の増えるこれはグループにとっていい話であろうと信じ、バス会社に持ち込むと「お前はどこの人間だ」とそこの大社長からなじられた。社外に出せない話であるが、学生の通学は休みが多く面倒くさいということであった。雇われ社長は任期中に余計なことはしたくはないのである。グループ創始者の唱えた顧客のために最善を尽くし、顧客に夢を与える街づくりなど嘘っぱちになっていたのである。受験勉強はできた小賢しい表向きばかりの優等生の集団に変わり果てていたのである。多くの鬱病者を排出し、会社ばかりかこの世とまでもさよならを、そ知らぬ顔をしてさせる集団になっていたのである。そこから私のスタート地点とも言える両親・兄の看病介護は絶頂期に入っていった。そして仕事どころではなかった時間を乗り越えて今がある。

一息で語れば簡単な人生であるが、この間に多くを考え、多くの人間に影響を受けている。結果、これまでやって来たことには間違いは無く、全てに意味があって今につながっているように思う。そしてこの先にまだつながっていくのである。
今考えるのは「我が人生に悔いがある」と思うからこそ続いた馬力だったのかも知れない。でもどんな人間でも目標が無く馬車馬のように走れはしないだろう。目標が無ければ悔いは無い、しからば私の目標は何であったのであろう。ただ、「生きる」ことだったのかも知れない。障害を持ち施設暮らしをする兄が言うように「生ある限りは生きるよ」、それだけかも知れない。
難しいことは考える必要はない。生きているから生きていけばいい。それだけなのかも知れない。

そして何かをするかは別である。生きている限りは何かをやらなきゃ退屈である。それほど年齢の変わらぬ死の淵から落ちかけた菊地兄貴を見て思った。兄貴を見習いやりたいことをやって生きていこう。死ぬ直前まで何かをやっていこうと深夜ぼんやり考えていた。寒くなくなった早春の深夜はいい。
「我が人生は悔いは無く」生きる力を湧かせてくれる春がやって来た。


※ふろく(菊地兄貴ふう)
ゼネコン時代に家族より長く時間を共に過ごした建築屋の後輩が松山で建築資格取得専門学校の教員をやっている。
昨晩、写真がやって来た。
高専出身の彼は私と同時期にゼネコンを辞め、ODAでタイの山岳地帯で建築を教え、日本に戻りフリースクールを主宰し、その後思い立ったように家族で石垣島に移住した。40代で一級建築士の資格を取り、40代でもまだ若い建築士は島民に惜しまれて2年ほど前に関西に戻ってきた。
先日、京橋で会った。餃子の満州で腹を膨らませ立ち飲み屋でメートルを上げて彼の話を聞いた。暖地の生活が長かった彼は今「寒さアレルギー」を持ち、タイでバナナを食い過ぎて「バナナアレルギー」も持つという。日本人としては稀有な体質を持つ彼の横顔を眺めながら「ああ、人間てサルだったんだなあと」妙に納得し杯を重ねたのであった。
不登校生を相手にしたフリースクール時代に夜学に通い教員の資格を持っていた。
「学生に囲まれて楽しく人生を過ごしてますよ。」
そう聞き、学生たちの笑顔を見て、なんだか自分のことのように嬉しかった。


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