昭和の恩師、わが市橋紀彦師範
私の合気道との出会いは昭和56年(1981年)、大学の合気道部へ入部である。
西部池袋線江古田駅にある大学から、池袋の空手道場に通うつもりで上京していた。入学式のその日、私はその足で池袋のその空手団体の本部に申し込み書を持っていくつもりだった。
入学式の行われた講堂を出ると、たくさんの新入部員勧誘の出店が並んでいる。二年も魚市場で働きひねくれた二十歳の新入生にも学生服の勧誘が寄ってきた。
合気道部の内田先輩だった。全く興味のない私に特に合気道を勧めることなく昼飯を食いに行こうと言う。どうせどこかで飯を食わねばならない、ならば江古田を知った人間に一度ついて行ってみるかと、その頃江古田で有名だった『金鶴寿司』という変わった親父のいる寿司屋に連れて行かれた。
今の回転寿司より安く、並が350円、中が500円,上と特上もあったが食べたことが無かったのでそちらは記憶に無い。自分で払うつもりで中を二人前食べた。ビールも昼から1本飲んだ。酒の弱い内田先輩は真っ赤な顔をして付き合ってくれた。
そして支払いになると、それまで優しい口調の先輩は頑として私には金を出させなかったのである。
そして私は翌日から合気道部員となり、新入生の加入を手伝っていた。
それから40年、合気道を続けている。もちろんプロではなく、途中仕事や家族の介護やなんだかんだと私の稽古を阻むものは多かった。ここまで歯抜けにはなっているが合気道を忘れたくない思いだけで続け、今、人を教えている。
学校では教師が嫌いでゼネコンにいてもバッチを付けた連中が嫌いで、とにかく先生と言う名の付く人間が嫌いであった。
そんな私が合気道を教え、先生と呼ばれている。
恩師 市橋紀彦先生との出会いがなければ現在は無いと思う。
心から感謝する先生である。
私とちょうど20年の歳の差がある。言ってみれば親子に近いお歳であった。長く合気道部の師範をされ、だんだん学生たちがご自身のお子さん方の年齢を越えていくそんな微妙な時期に先生にお世話になった。今思えば、私たち以上に先生のほうが気を遣われていたのかも知れない。
合気道のことを文章にし出したら非常に長くなる、しかし少しだけ説明したい。
合気道はスポーツではなく、武道である。
合気道には試合が無い。
本来、武道の試合の勝った負けたは、生か死である。
長く続けるとわかるが、合気道の投げ技のほとんどが本来は後頭部から落とされるのである。だから試合があれば合気道人口は試合の度に半減し、最後にはひとりになってしまう。
だから試合が無いというのが本当の理由だと思っている。和合の精神がどうのこうのと言う方々もいらっしゃるがそれが本当の理由だと私は経験をもってそう思っている。
冗談のような書き方をするが、そういうものだと私は思っているし、当時新宿の本部道場に通って、私はこいつなら勝てるな、なんて思える指導員でさえ一人もいなかった。
まったく市橋紀彦先生の話にたどり着かない。
今回はプロローグとしていつか尊敬する故市橋紀彦先生に捧げる文章を書きたいと思う。
厳しく優しい先生でした。
本当に強い人は優しいということを市橋先生に教えていただきました。
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