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無くならなくていいと思うもの

こんな季節だったと思う。
あおく高い空を憶えている。
標高の高い地の強い紫外線が私の頬を刺していたのを憶えている。
もう50年近く前に岡山県の某市まで行った。小学生六年の時に一人で新幹線と伯備線はくびせんを乗り換えて行った。年子ひとつうえの兄が脳の手術を受けた。かなりグレーな合法な手術だった事をほんの数年前に教えてもらった。その時母は兄のために必死で前後の見境がついてなかったと私に教えてくれた人は言った。今さら聞かなくともよかった。むしろ聞きたくなかった。

大阪の某大学病院を追われて岡山県の病院にたどり着いた医師は世間からの賛否両論の批評の中、メスをふるい続けたのである。兄のてんかんは良くならず、より複雑なものになり、半身には不随が残った。そんな兄を一人で見舞いに行き、病室で一泊してきた。特等の個室の兄の横の付き添い用のベッドに寝かしてもらい、母はソファで寝た。夕方病院の近くにあった団子屋で食べさせてもらったみたらし団子が美味かった。

それから数十年、ゼネコンを辞めて大阪の鉄道会社の設計事務所に勤めていた時にゼネコン時代の岡山の先輩から声がかかった。こっちで仕事をしないか、と。その舞台が兄、母を訪ねた某市だったのである。ほぼ記憶から消えていた某市まで行った。病院は残っていた。
ぽつぽつと暗い思い出が蘇ってきた。その時、私がいてはいけない場所のような気がしていた。

仕事は社会福祉法人の高齢者介護施設、その法人の役員には某市の首長しゅちょうも入っていた。
そして、その入札に疑問があり、新しい設計業者を入れたいという意思を持った方がいた。

その首長しゅちょうにも形だけの挨拶をして、大阪に戻り入札の準備をしていた。
そこへ顔を青くした電話を受けた女性職員が「某市から電話です。」と寄って来た。
電話を代わると「君はどういうことをやろうとしているのか分かっているのか」と恫喝ドーカツするような声で言ってきた。「分かっていますが、あなたも今言っている意味を理解してますか」と問うとしばらくの沈黙の後、首長おやまのたいしょうは電話を切った。

結局入札は辞退した。コンプライアンスの厳しい会社からやめてほしいと言われた。
辞退届を持参して、帰りに岡山市内で先輩に腹一杯酒を飲ませてもらった。

私がやろうとした事がその頃は建設業界ばかりでなく世の中で当たり前だった。特定の業者が暴利を貪るためにこのシステムを行使するとだけ考える方には悪いシステムであろう。そんなこともあったかも知れない。しかし、世のため人のために発注者から望まれる事もあった。そして、叩き合いの入札では生まれない適性な利益で下請け孫請けまでが十分潤ったのだ。

この世に無くならなくていいと思うものがいくつかある。
このシステムも私が無くならなくてもいいと思うものの一つである。


ヘッダーの画像は高校生の頃、陶芸教室に通っていた息子の作品です。
思いを一番かたちにし易いのが陶芸だと言っていました。
こんな靴で歩けたらいいなぁ、と営業マン時代にはいつも思っていました。

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