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合気道をする子どもたちにおもう

阿倍野に道場を開いて五度目の春が来る。

子どもたちの数も増えて十人の子どもたちが金曜日と日曜日に元気に稽古をして帰っていく。
そんな日常に徐々に戻っていくであろう。

私からしたら孫のような子たちばかりである。
合気道の稽古の他にもいろいろ習い事をしている子が多いようだ。
ご両親も熱心である。時代が変わったな、と思う。私たちの時代には子供の教育に熱心な親はほんの一部だった。
幸せな、いい時代となったということであろう。

合気道を始める理由もさまざまである。
私たちが子どもの頃は空手、柔道の町道場に通う連中の目的は皆ケンカに負けないためであった。
今、子どもたちにこっそり聞くと『名探偵コナン』の登場人物がする合気道に憧れたり、中には強くなりたいという子もいたり、でも親の勧めってのが多いようである。
礼儀を身につけて健康増進にもなる、と考えたら合気道はちょうどよいのかも知れない。

私は大人も含めて、動機は何でもいいと思っている。
せっかく始める合気道を楽しいと思ってやって欲しい。
それだけを思ってやっている。
私たちが大学で始めた合気道はそんなものではなかった。体育会の合気道部を辞めることは大学を辞めることと肌で感じ、ひたすら稽古したものである。
一年、二年では退部、退学が頭をよぎった事もある。
合気道の面白さを感じたのは卒業前だったと思う。たぶんそれまで対峙していたのは合気道ではなくて『合気道部』だったのである。
しかし、この嫌でたまらなかったしがらみは今ここまで続いている。
やっていて良かったなと思えるようになった。

卒業前、歌舞伎町の三汁一菜で市橋紀彦師範に『これまでやってきた畳の上の稽古は合気道ほんの一部だ、これからは生きていくこと全てを合気道だと思え』と言われていたものの、その言葉が本当に理解出来たのはつい最近である。
子どもたちが先のことを自身で真剣に考えるのはもっと先のこと。
とりあえず合気道が面白い、と思えるように稽古してもらいたい。
私たち指導者には責任がある。
稽古の中で『なぜ?』を感じて頭と体で考え、理解してもらいたい。
そう思って道場にやって来てほしい。
受験の時期が来てやめるまででいいと思う。
いつか大人になって子どもの頃あんな事やったなぁ、と記憶に残る程度でいいと思う。
たぶん人生ってのはそんな事の積み重ねだと思うから。

大学卒業前の数少ない写真
合宿で市橋師範に投げられている私

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