見出し画像

私の人生の軌跡(サブコン営業マン編)建設業界の広さを知った時間

ゼネコンって何だか知っていますか。
General Contractor(ゼネラル・コントラクター)、総合請負業の略です。
発注者から建築工事一式を請負って多くの業者とともに建設物を責任をもって竣工させます。
そして、サブコンという業態もあります。
Sub Contractor(サブ・コントラクター)の略語で、電気設備、給排水設備など設備業者を含めてさまざまな専業者で、ゼネコンの下で仕事をします。

私はゼネコンを辞めてこのサブコンで二年間仕事をしました。
コンクリートの橋梁を作る会社で、この橋梁は国や自治体から直接仕事を請け、時々ゼネコンの下請けでコンクリートの部材(高層建築などで使う)を納めていました。
もともとは私のいたゼネコンが傾き出した時にこの会社が、京都営業所長を引き抜きにかかっていました。
向こうの営業責任者が所長と行動を共にしていた私にも目をつけていたようでした。
破格の年収提示を受けた所長は断り、和歌山へ行ってしまいました。

私は辞めてしばらくはのんびりしたいと思い、先を何も考えずに家でぶらぶらしていると、自宅までその会社の営業部長がやって来て「一緒に仕事をしないか。建築工事を強化したいから来てくれ」と言われましたが断りました。
建設業界で仕事はもうしたくないと思っていました。
でも世の中はそんなに甘くはありませんでした。


私の人生におけるモラトリアム期間のような時間

ゼネコンを辞めてほんのしばらくの間、ぼっとしていた私は日経の求人欄で公営のホテルが「新しい発想を持つ未経験者」を求めると、支配人の募集を始めたのを知った。
一次審査は、あるホテルの経営状態を読み取っての解決策提案であった。そして大阪で施設部長との面接、そして理事長との最終面接に虎ノ門まで自費で出かけた。数人の採用となっていて大阪の施設課長には具体的なホテル名を出されて心準備をしておいてくださいとまで言われた。でも、その理事長面接で落とされたのである。半分落胆と半分怒りで施設課長にしつこく問いただすと「本当に申し訳ない。決まったのはすべてキャリアだ。雲の上で決められてしまった」と言うのであった。

そこまで聞いてしまうと悲しくなったが納得いけた。自分が甘かったのである。業界のことを全く知らないのに支配人などに採用してくれるなんて甘い話があるわけはない。さんざん建設業界で厳しい世界を見て来たのに自分の甘さに腹が立った。
ちょうどそんなタイミングでサブコンの営業部長がまた自宅まで訪ねて来てくれたのである。そこで行ってみようかと思い決めたのである。

同じ建設業であったが雰囲気が違った。ゼネコンから来た男だということで色眼鏡をかけて見られる部分もあったが、なんだかゆとりを感じる会社であった。

橋梁がメインの会社で、業界では大手の旧財閥系の会社だったが、自社の将来を考えて一般建築の力も付けたいから仕事を取って来てくれと言われて採用されたが、なんと入社すると京都エリア担当の橋梁の責任者だった。余力で建築工事を受注してくれればいいからと、まあ、なんと簡単に言うなぁ、と思った次第であった。
橋梁の仕事はすべて業界で話のついたものばかりであった。橋梁の専業者はそれほどの数はない。だから仕事は上手くまわっていくのである。営業マンの仕事は失敗することなく入札を行うことであった。

今ではもう過去の話となり、すべては昔話である。

このようなシステムは日本に限ったことではない。どこでも行われていることである。落札した一社のみがいい思いをするのではなく、多くの協力業者も材料納入業者も町の食堂も飲み屋も建設業者から流れていく金で恩恵を受けるのである。
ゼネコン時代にタクシーの運転手さんに「ゼネコンさんに仕事が無ければ世の中に金が回っていかない」とよく言われた。言われるまでもなく金はよく使った、飲み食いはもちろんのことタクシーもそう、高いスーツや革靴や、客への手土産も欠かすことは無かった。
今よりも世の中がうまく回っていたんじゃないかと思う部分も無いことはない。

コンクリートの橋は美しかった。
鉄筋ではなく、ピアノ線を入れたPCコンクリートは綺麗な流線形である。その長い橋梁にはたくさんの橋脚が必要無い。
そしてその架設方法は幾つもあった。巨大なレッカー車を持ち込んで重い橋梁を吊って据え付けるばかりではないのである。橋脚を中心にやじろべえの手足のように左右に橋を作りながら伸ばしていったり、何百トンもある橋梁を人力で滑らして据え付けるような原始的な工法もあった。

そして、私は毎日入札の無い日も、京都の北から南まで自動車で走り回り、京都の橋を見て回った。京都北部の山家(やまが)という場所に電力会社の水路敷があった。そこのコンクリートの蓋も製品として納入していた。暑い夏の日であったが、茂る緑は盛夏の陽射しを遮って一瞬私の視界は真っ白になった。水路を流れる心地よい水音が加わって夢の世界にいるようであった。そこが研師ヒデに関わる「人斬り浅右衛門」を生み出した谷衛友が治めた地と知るのはずっと後であった。

橋が必要な場所は田舎が多い。京都の長い南北の、中心市街地以外の端から端まで走り回った。夏には休みの息子を連れだして入札の帰りに日本海で海水浴をして帰ったこともある。冬は冬でスノータイヤで初めての雪道を走り怖い思いもしたが、楽しかった思い出のほうが多い。

こんなことばかり書くと何も仕事をしていないようだが、それなりに仕事もしていた。京都の南部には鉄道駅の無い自治体がある。自動車しか足はなく、道路整備が北部ほど進んでいなかった。ショートカットで京都市内に近くなる山道にコンクリートの盤を取り付けて道路幅を広げる提案をして今を共に過ごすNPOの理事長の現役時代に予算を取ってもらった。

ゼネコン時代からの付き合いの学習塾の経営者の発注で高齢者のグループホームを京都南部の大きな寺の前に建てた。
大変個性的なオーナーでいつも私に夜電話をしてきて何時間でも建築の相談をしてくるのである。だいたい個人の発注者には個性の強い人が多かった。
しかし、RC建築の技術が無いためにそのグループホームの施工ができなかった。そして、辞めたゼネコンに行って頭を下げてJVで仕事を請けてもらった。若い社員を現場に行かせて一般建築の勉強をさせた。
そこまではいい流れだったのであるが、なんと着工前に隣のマンションの自治会との約束していた窓ガラスの擦りガラス採用や塀の建て方などを竣工時にすべて反古にしてしまった。まったく住民の声を聞こうとせずに住民から施工会社共々告訴されてしまったのである。

そして被告人側証人として、施工会社である私のいたゼネコンの現場責任者に声がかかるところであったが、その直前にリストラされて辞めてしまっていたのである。
ゼネコンの総務部長から「宮島悪いが行ってくれんか」と言われて京都地方裁判所まで行ったのである。
証人台に立ち宣誓して証言をして私の責任を果たしたのである。
テレビドラマで見た光景と全く同じだった。
辞めた会社から日当をもらい、帰りに同席した総務部の若い子を連れて先斗町に寄ったら日当では足らなかった。
そして最後の最後までオーナーは出てこなかった。非常に悲しい思いをした。

コンクリートでできないことは無いと言い切った技術部長がいた。
京都には変わった設計事務所がある。そこの所長から山陰地方の大きな神社、年に一度日本中の神様が集合する神社である。そこの日章旗の掲揚ポールを松くい虫除虫薬散布のヘリコプターが折ってしまったから何か案を出して欲しいいと頼まれた。
この部長の計画で、PCコンクリート製のつなぎで50m近い1本のポールの図面を出したことがある。メンテナンスフリーのコンクリートの製品は外部利用されるこんなのにうってつけなのである。
これはうやむやのうちに終わってしまったのだが、私たちが計画した数年後に出来上がっていてびっくりした。
現与党の地元代議士の息がかりの設計事務所だった。京都にはそんな設計事務所がいくつもあった。


私はこの会社を二年で辞めました。
世話になった先輩方に申し訳なかったのですが、定年前にボケてしまいそうに思ったからでした。決まった仕事を入札で取るだけの営業の仕事に面白みは感じられませんでした。育つ環境ってあるな、と思いました。社会人一年生で入社していたら持たない違和感でした。どちらが正しいのかはいまだに分かりません。
私が辞めてしばらくすると建設業界で「脱談合宣言」がありました。
実際のところは知りません。
でもそれ以降大変だったとは聞きました。
それで回っていた世の中を変えなければならなかったのです。

ここにも今なお付き合う仲間がいます。付き合う仲間は増えていくばかりです。
今思うと大変なこともいろいろあったのですが、わりと楽しく過ごした二年間だったと思っています。
そして建設業界の幅の広さを知った時期でもありました。
この後、設計事務所で仕事をし、自分で飲み屋を始め、障害者介護をし、そして今また違うことをやっている自分がいます。
人生において何が良く何が悪い、なんてことは一つも無いと思います。
ただ言えることは、経験はやった人間にしか分からないことです。
本を読むことは疑似体験だと思い、読み漁る時期がありました。でも実際の経験には勝てないだろうと今は思っています。過去の経験が無ければ今は無く、この先に続く未来は無いのです。

この二年間をモラトリアムなんて表現したら会社の連中に叱られそうな気がします。ここまでの、そしてこの後のステップになった期間です。いい時間、私の中年時代の青春を過ごせた時間だったと思っています。


※前回記事です




この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?