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私の人生の軌跡(ゼネコン営業マン編)「さよならだけが人生さ」とうそぶいたあの日 

ふつふつと不完全燃焼のままくすぶった心残りのようなものがあると、はっきり言っておきましょう。
「もうこれでいいや」そう思って辞めたゼネコン営業マンですが。

2年近く朝から晩まで多くの時間を共に過ごしたS京都営業所長は支店次長兼任で大阪南部エリアと和歌山エリアの所長として京都から出ていってしまいました。どちらも建設業の仕事には難しいことが散在している地域です。その難しさのすべては歴史です。所長はここでも身体を張って仕事をしていました。

サラリーマンには当たり外れや運や不運のようなものが必ずついて回ります。負け惜しみじゃないのですが私にはそんな運のようなものには縁が無いようでした。会社が傾けば皆さん本来持つ自分の姿を見せだし、入社当時に感じた人を育てる雰囲気は薄まっていきました。同じ会社の営業マン同士です、会社の仕事になればいいじゃないかなどと、社内は甘く考えていた私は同期にも牙を剝かれ、ため息しか出ませんでした。

「さよならだけが人生さ」と思え、出たのはため息だけだったのです。
ゼネコン営業マン編の最終章です。


ゼネコン営業マン最後の時間

S所長が出て行った後にやって来たのは、なんと大阪支店の元上司のK営業課長の上長、H副支店長だった。
当時の京都営業所はAランクの営業所、現在の大阪支店と変わらぬほどの量の仕事をしていた。
支店営業しか知らないHは言わば箱入り息子のようなものであった。外見だけでの京都営業所長への憧れがあったのだろう。
会社対会社の付き合いであるうわべの営業しか知らないHの赴任初日に元ヤクザの土木会社の社長がやって来て「宮島さん、新しい所長さんに挨拶させてくれ」と言う。二つ返事で所長室に通すと目を丸くしたH新所長は二言三言しか言葉を発することは無かった。支店の営業では自社の協力業者と接する機会も無かったのであろうが、その社長は短く刻んだ髪にぴかぴか光るダブルのスーツに革靴、両手の小指の無い姿、よほど肝の据わった男でなければ初対面で普通に対応できないだろう。社長が帰ったあとに「俺にアポなしで客を連れてくるな」と怒鳴られた。

そのあとは外回りに同行したが、どこに行っても同じような洗礼が待っていた。まともに話できたのは銀行くらいだった。

そしてそのあとはほとんど営業所から出ることは無くなった。そして1年後には尻尾を巻いた犬のように支店に帰っていった。

私は半年後には支店営業部に戻してもらっていた。それまでの間は毎日夕方会議、営業内容はすべて手書きの報告書、外回りしながらの私はまた自宅に帰れぬ日々が続いた。
そんな日常に耐え切れず支店長に談判して京都を引き上げさせてもらったのである。
でもその半年の間に事件は起こった。

少し前から温めていたある施設の入札があった。
ここの理事長は私がこれまでの生涯で出会ったなかで一番頭のいい腹の座った気持ちの綺麗な発注者だった。私のいたゼネコンでの施工が3件目だった。補助金が入るみなし公共事業となるために私のいたゼネコン1社に決め打ちは出来ない。入札になる。地元業者をJVで参加させて8JV での入札までが大変だった。現与党の大物代議士の事務所に行き、地元建設業組合の強面の役員たちに会って、でも一番大変だったのは社内だったのである。

入札前日に理事長にたれ込んだ奴がいたのである。
他社が知りようのない入札金額まで口にしていた。
私にはピンときた。その時支店次長になっていた元の上司のK営業課長と元京都営業所のS事務課長である。Sは大阪支店に飛ばされてKとつるんでいた。
この施設の建設場所がKが駅前再開発をやっている町だった。私は大阪支店に呼びつけられて「勝手に人のシマを荒らすな」と言われていた。支店次長という立場で営業統括もしている人間からそんな言葉を聞くとは思いもよらなかった。
S元事務課長は若い私に対する妬みがあったのだろう。

私はその情報を始発電車で入札会場に向かう途中にS所長からの電話で聞いた。S所長は和歌山に異動していたが、この件は手伝ってくれていた。入札予定金額を千万単位で下げて落札した。この金額はのちに工事の赤字となって足を引っ張った。でも仕方のないことだった。

なんとか入札が終わり、入札会場で発注者との打ち合わせが終わると、各社が形だけの積算に使った巻いた図面が8本残った。落札業者は再度詳細に見積りや工事計画を行うので図面は複数あればありがたい。そのために各社の返却図面は落札業者が会社に持って帰るのである。1本10キロもある紙の図面を8本である。なのに社用車は使わせてもらえなかった。田舎町でタクシーが来るのを待つ間、落札できて喜びがあるはずなのに悲しくなっていた。
そのまま営業所に寄らず大阪支店まで移動し、建築部と打ち合わせると遅い夕方となっていた。一人京橋の町の雑踏にまぎれ、気持ちが悪くなるまで酒を飲み、なんだか歩きたくて、途中ゲロを吐きながら奈良まで歩いて帰った。長い一日だった。

後日談であるが、この理事長にどうして当社に仕事をさせるのかを聞いた。「真面目に仕事をやってくれるから」と言っていたが、何かあるに違いないと思っていた。「あんただけに教える」と言いながら話した内容はこんな話だった。

病弱だった理事長は貧しい農家の出身だった。先駆の考えなのであるが、その頃まだ世の中に定着していない「福祉」の勉強がしたかったそうである。中部地方にあるその専門の大学で学ぼうと思ったが、金も無ければ働き稼ぐ身体が無かった。そんな理事長を支えたのが当時就職したばかりの弟さんだったという。そしてその弟さんは私のいたゼネコンで働いていたというのであった。大きなダム現場で技術職として働き、大学卒業まで仕送りは続いたそうである。そして卒業直後に現場で亡くなった。

たまたま私の懇意のOBが弟さんと一緒に働いていた。当時そんな死亡事故は少なくなく、現場で作業中に弟さんは確認を怠ったクレーンが吊ったH鋼に振り向きざまに直撃し即死だったそうである。顔が無くなっていたという。

その弟さんから理事長は「仕事が楽しい」といつも聞き、そんな会社に理事長はずっと感謝していたそうである。だからいつか恩返しをしたいと思っていたという。
その理事長の思いに私の仲間たちは真面目に施工に当たって返していたのであった。

談合というものは必要悪とよく言われた。法に逆らう行為であるから良い事でないことは分かっている。でも金を使う側は生きた金を有効に使いたい。わけのわからない業者に手抜き工事されて金だけ持って行かれてはたまらない。
そこに談合が生まれるのは仕方ないことと思う。
ただ、双方が違法であることをよく心してことに当たらなければならない。そんな場合、業者は発注者を守らなければならないのである。


もう一つ、人を信用できず、人を信用できた事件があった。
大阪支店に出戻ると、大阪本社の最大手電器メーカーの資財部から電話が入った。支店次長になっていた元の上司のK営業課長から電話が振られて来た。
資財課長からであった。当時そのメーカーの工場のあった北陸方面の元工場用地をあるマンションデベロッパーに私のいたゼネコンの仲介で売買契約を結んだそうである。
そしてその直後、創業一族会長あてにクレームを内容証明付き郵便で送ってきたというのである。
丁度そのタイミングで土壌に関する新しい法律ができて、用地の使途や土壌調査内容の公表が義務付けられた。土壌改良を行なえばなんてないことなのであるが、その予定をしていた土地だったのだが、うまくそのことが伝わらなかったのか、資金繰りに困る噂のあったデベロッパーがそれを盾にとって難癖をつけてきたのかも知れない。
資財課長から「とにかく助けて欲しい」といった電話だったのである。

なのに北陸の仲介した担当部長も大阪支店の上司らも逃げてしまったのであった。東京本社からやって来たのも担当の営業課長一人だけだった。役に立たない担当二人で電器メーカー本社に頭を下げに行き、資材部長から死刑宣告を受けるほど怒られた。「対応がなってない」と。そのまま資材部長は引き上げてしまった。
当り前の対応である。私だって立場が逆ならば同じことをしたであろう。
そして私は担当者としての責任を感じてどうしたらいいか考えた。そのまま資材部長に嫌われれば二度と仕事は回ってこないのである。

一人京橋に戻っても会社に戻らず、飲み屋に入って「もう辞めようか」と考えたのである。
そしてそれから二カ月の間、毎日アポなしで資材部長に会いに行った。必ず創業者の記念館に立ち寄り会社の歴史を頭に入れていつか資材部長に会える時に備えた。何があっても毎日名刺を置き続けた。
そして二か月後に受付の女性の笑顔がいつもと違った。私が口を開く前に「お待ちしていました」と打合せ室に通された。待っていると資材部長が出て来た。社内食堂の喫茶部のコーヒーも出てきた。その打合せ室でコーヒーを出してもらえるのが営業マンとしてのステータスと常々聞かされていた。
資材部長に「あんたは変わった男だ。俺も営業出身だ。あんたの気持ちはよく分かる。あんたに免じて付き合いを戻すよ」と言われ、私はその場にへなへなと崩れ落ちそうであった。

その数日後、主力銀行から副社長としてやって来ていた銀行の元専務が大阪支店にやって来て「宮島君はいるか」と営業部にやって来た。
なんと、考えれば会社を管理し始めた主力銀行も関西の会社、大手電器メーカーは長き銀行の歴史のなかで大切に取引してきた相手なのであった。銀行としての面目もあり副社長も大阪に来たら必ず一人で資材部長に会いに行きずっと門前払いを食っていたのであった。
副社長はその日資材部長に会って来たと言った。そこで事件以来初めて会ってもらい「いい社員を置いてるな」と言われてきたと私に言った。
「ありがとう」と言いながら私の手を握ってきた。

でも私はその前日に辞表を出していた。


私は多くの先輩方と多くの取引先の方々にに育ててもらい、まあまあ一人前の社会人となることが出来ました。
これは今とは違い、世の中がまだ良かったからかも知れません。
どんなに出来ない奴でもそれなりの経験をさせて、考えさせれば何とか一人前になっていくものです。
私がその見本です。
でもそのためには経験させようと思える気持ちが必要です。
寛容に待つ気持ちが必要です。
良い世の中って何なんでしょう。
即、結果を求められ、それが出来なきゃ排除されてしまう世であれば、能力差や個性の差で育ちにくい「個」はどうしたらいいのでしょうか。

その昔、と言ったってほんの四半世紀も前には本当の豊かな日本がありました。
物で満たされる豊かさではない本当の豊さがあったように思います。
そのなかで育てられた私は幸運だった、繰り返しますがそんな言葉しか見つからないのです。

命がけで仕事するなんて今じゃありえないのでしょうが、そんな気持ちで家庭を顧みることなく仕事をしてきました。
それが出来る、しようと思う土壌があったからです。
今はその経験から、余力で生きているように思えます。

この後、私は気の向くままにいくつかの仕事をしてさまざまな世界を覗いてきました。
(ゼネコン営業マン編)はこれで終わりますが、私の目を通し見て来たいくつかの世界をこの先、もう少しだけ綴ってみたいと思います。
是非お付き合いください。


※前回記事です




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