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開かぬ店におもう

久しぶりに家内がレーズンバターを買って来た。
レーズンバターは家内の頭の中ではデザートに分類されるようである。
私にはもちろん酒のアテである。

30年ほど足を運んでいるJR高架下にある新梅田食堂街の立ち飲み『北京』のレーズンバターは美味かった。
早い時間に行くと親父が手作りのレーズンバターを、大きなボールでバターと干し葡萄をヘラでこねて作っていた。
カウンターに並ぶラム酒も入れていたに違いない。
いつもバーボンのロックのアテだった。
洋酒には甘い物があったりする。
チョコレートも普段はあまり口にしないがバーボンを前にした時は別である。

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このレーズンバター、何が良いのかと考えると甘い干し葡萄と塩気のあるバターとの出会いなのであろう。
バターではなく、甘いクリームではこんな感動は無いのだろう。
塩気が甘さを引き立ててくれている。

考えればそんな食べ物は世にたくさんある。
ぜんざいやお汁粉に塩を入れると知った時には意外だった。
奈良の当麻寺近くにある中将餅に合わせて出される塩昆布もそうである。
渋い番茶と口にするあんこの餅は私でも美味いと思える。

合気道の稽古も同じである。
若い頃には何があっても、欠かさず毎日稽古をしなければと思ったものだが、今それは無い。
先に守るものを一番に考えるようになった。
そして、頭の中で私の身体は動いている。
イメージトレーニングであるが、実際身体を動かしていた時には理解出来なかった事が分かったりする。
夢の中でも稽古をしている。
詰めて稽古をする期間と仕事や家庭の都合でどうしても稽古の出来ない期間が交互にあった。
そんな時間が技と合気道に対する考えの熟成期間となり、かえって良かったと今は思っている。 
なんだか味の調和と似ているような気がしている。

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レーズンバターがデザートでのコーヒーも美味かった。

この不自由な時代をロスとして終わらせてはならないと思う。
何かを熟成させ、機が来た時に完成させることが出来る準備期間のように。

しかし、この先の見えない熟成期間は馴染みの店を熟し切らせた。
そして今度は枯れつつある。
まるでドライフルーツのように。
果実に戻れるうちに元に戻してやって欲しい。
熟し切った果実たちが腐ることなく枯れてしまう前に。


このマグカップはレア物のようで、眼鏡付きである。
決して私の落書きではない。

絵付け職人の遊び心なのであろう。

腕の良い装飾品の職人が誰にも分からないように刻印するように。

こんな遊び心のたくさんあった店たちは今、なりをひそめている。
この遊び心を失ってしまえば、ここまで連綿と続いてきた文化を途絶えさせ、昭和の火まで消してしまうことを皆に知ってもらいたい。

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