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9月23日彼岸中日

9月23日、私の秋分の日。
新幹線から見えるどの田にも夏のあの濃く力強い緑の色は無い。兄の待つ愛知に向かいこだまの車窓からそんな風景を眺め、昔日の記憶の引き出しに手をかけていた。

私の両親は農家の子だが、私は農のなかで育ったことは無い。でも、この稲穂が金色に輝き爽やかな秋の乾いた風に吹かれどれもが同じ方向に頭を傾げるのをじっと見ていた記憶がある。
農耕民族の血が流れている証拠なのであろうか。しかし、片側には合気道の稽古中に、とことんいけるところまでやってやりたい気持ちがつらつらと湧き出てくるのを感じる自分がいるのを知っている。農耕の出来る狩猟民族の血か、はたまた農狩兼業の血が流れているのであろうか。

自身に潜在する残酷さに時々気付いてゾッとする時がある。
「これしか残る方法は無い」と、兄を田原市にある施設に預け、田原市役所に兄の住民票を移した時には兄と共に暮らせぬ自身を恥じた。自分を「人でなし」だと思った。けれどもそんな事は一瞬の気の迷いのようなもので、明くる日からはケロッとして普通の生活をしているのである。

家族の在りようを考える。決して一緒に生活できない兄でも家族と思えるようになれたのである。年齢、長く生きてきたことは大きい。時間は多くを流し去ってくれるし、ものの考え方を寛容にしてくれる。自分の能力が見えてくる。諦めることができる。そして決心できるのである。

豊橋から兄のいる施設まで地元の私鉄で35分、三河田原の駅を降りると駅前には6万人に足らぬ人口に似つかわしくない広いロータリーと、電柱の無い広い道路が続く。あの大トヨタの輸出港としての大きな恩恵であろう。しかし少し通りを外れれば懐かしいような雑木林が三河蔵王の麓に続く。誰かが私を見ている。誘われるがままに覗き込むが昼なお暗い雑木林の奥からは寝るのを惜しんで鳴く秋虫の声と遠くからツクツクボウシの泣き声が聞こえる。線状降水帯の通り道となったためであろう、たくさんのまだ若い青いドングリが帽子をかぶったまま転がっている。まるで兄と私が幼稚園でかぶらせられたベレー帽姿のようである。兄と私の転がる首の上をこれまた雨風でズタズタにされた汚くなった巣を慈しむかのように女郎蜘蛛たちは風に揺れている。そして離れたところから曼珠沙華が「私は赤いから曼珠沙華なのよ」と言い背筋を伸ばしている。
そんな地が兄の生きる場所なのである。

夢にまで見た自身の苦渋の決断と兄の生き方、悩み続けた昔日の苦悩は昇華し今は跡形も無い。兄に「また来るよ」と言っていつものように別れた。あと何度こう言って別れる事ができるのだろうと考え、世の家族の形態は多様であって私の在りようがそれほど特殊ではないのだろう、そう独りごちて蒲郡みかんの酎ハイの瓶に口を付けた。

長い時間がかかったが、そう思えるようになり、亡き両親に感謝できるようになった9月23日、彼岸の中日であった。


兄のいる施設から見える三河田原の街、地平線の向こうは子どもの頃遊んだ太平洋
こいつが雑木林から私を見つめていた。「私のは不法投棄じゃありません」
豊橋駅にいた盲導犬のPR犬、PR犬なんて言い方があるのを知らなかった。猫が好きだがこんな大きな犬も好きである。
いつもの新幹線

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