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『上京』それは魔法の言葉

1980年、もう40年以上も前のことである。
私は高校を出たあと2年間働いた豊橋市の魚市場を卒業して、東京での生活に備えていた時期であった。
豊橋から東京、大阪は『こだま』でどちらもほぼ二時間、真ん中辺りの豊橋は東京圏でもなければ大阪圏でもない、かと言って名古屋は尾張で豊橋は三河で、名古屋はそれほど親しみを感じる土地じゃなかった。その時の私は大阪の地に一度も足を踏み入れたことは無く、故郷を離れることは上京の一択しかなかったのである。

勉強が嫌いなわけじゃなかったが、他の連中のように当たり前に大学を目指すのが嫌だった。障害を持つ兄の事も頭にあった。
とりあえずは働こう、そう考えて当時は働くことは肉体労働しか頭になかった私は魚を扱う朝の世界に飛びこんのである。水は冷たかったが、人間は温かかった。すぐに馴染めた水の中、しかし居心地の良さとぬくとさを感じ過ぎるようになり二年で卒業させてもらった。
そして上京を決意したのである。

当時、兄は静岡の神経医療センターにてんかんの服薬治療のために長期入院中だった。
私は生涯で一度きり、母と二人きりの時間を上京するその時まで過ごしたのである。
市場では先輩達に可愛がられ深夜の帰宅が少なくなかった。朝は早いが終わりも早い、早い時間からよく遊び、よく飲んだのである。私もどんなに遅く帰っても3時に起きて4時には家を出た。必ず母は起きており、私が食べなかった晩メシを温め直して待ってくれていた。働いていた仲買では朝メシも昼メシもご馳走になったが午後2時頃帰って二度目の昼メシを母と一緒に食べた。朝、朝、昼、昼、晩と1日に5食の時代だった。

母はかつて東京で生きていた。
従軍を志し年齢詐称し潜り込んだ日赤病院で正看の資格を取っていた。終戦後山形の家業の農家で働く母を祖父はいつまでも許しはしなかった。手離す寂しさはあったに違いないが、「東京に行け」と背を押したのである。推測ではあるが、生真面目な母は家長を務める父と死んだ母への恩返しを考え農作業をしていたに違いない。違和感も無く故郷山形県南陽市で日々を泥にまみれて働いていたに違いない。そしてそこには家族や友人達との時間があり、とりわけ三姉妹で過ごす時間は何ものにも代えることのできない母の娘らしい生涯におけるかけがえのない時間だったに違いない。

そんな母から聞いていた。
「東京はいいよ。回りを気にする必要はないし、誰もこっちを気にもしない」
何気なく、その時には何気なく聞いていたのだが、今考えれば他の子どもとは違う兄を、自分の産んだ子を気にしていたということかも知れない。そう今考えれば母が不憫でならない。出産時に友人のたった一言の「大丈夫よ」の、無責任なたった一言で自然分娩に踏み切って、生涯降ろせぬ荷を背負わして歩かせなければならなくなった兄のことを一日たりとも忘れることの無かった母を不憫でならない。女としての楽しみも幸せもすべてを投げ出し兄のために生きていった母が不憫でならない。

まだ子どもで普通の子どもの私はその言葉の真意をつかめずに「東京に行くよ」そう答えたのだった。母と二人きりの私の上京前の2年間が母が兄を産み、他界するまでの半世紀の間で一番幸せな時間だったのかも知れない。

私はこの歳になり、自分の子を育て、両親を看取って多少は人の気持ちも考えれるようになった。兄の病は癒えることはなく、兄はその苦しみを母のせいにはしなかった。「生きている間は生きるしかない」と言い、今他人の力を借りながら一人支援施設で生を保つ。母は不幸にも、いや幸せなことにアルツハイマーという神からの最後の授かり物で兄を忘れ、あの世に逝ったのである。

私の知らぬ母の東京時代、私の知らぬ母の娘時代。そこには母に「回りを気にする必要はないし、誰もこっちを気にもしない」と言わしめた東京の良い意味の冷めた空気ばかりではなく、私の想像出来ぬ、いや、想像出来る娘らしい楽しさと夢に満ちた空気が詰まっていたに違いない。生涯で一番楽しく活き活きと過ごした母がそこにいたに違いない。

『上京』、それは私には切ない言葉である。ただ、その切なさには多くの意味が詰まっている。多くの思い出が詰まっているのである。東京は田舎者の母や私にはそんな魅力のある土地なのである。

『上京』は私に過去のすべてを思い出させるとても不思議な魔法の言葉なのである。


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