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コインロッカー係の苦悩

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男は匂いが何かを考えた。
かつてどこかで嗅いだことのあるなんだか懐かしい甘い匂いだった。
女と弁当と手紙のやり取りをした、あのロッカーあたりから匂うのである。
女との記憶だったかと記憶を手繰り寄せるが分からなかった。

偶然が教えてくれた。
以前ならば決して電車になど乗らぬ時間に、春の午後の日差しを背に浴びながら男は大阪環状線に揺られていた。
大正駅で乗ってきた乳飲み子を抱いた若い母親が男の隣に座った。
「あっ、」男の分からなかった匂いの正体であった。

ずっと分からなかった匂いは乳飲み子の甘い香りだったのである。
自分の子を持ったことのない男に分かるはずはなかった。
懐かしさは母親に抱かれていた頃の自身の匂いだったのだろう。

男は匂いの正体が分かって驚いた。
そして考えた。
思い切ってロッカーに手紙を置いて帰った。
あの頃のように手帳に女への想いをしたため破いて置いて帰った。

それは無くなり、一枚の綺麗に折られた便箋があった。
「私が出来るのはここまでです。あなたへの思いでここまで許されました。」「匂いの子はあなたの息子です。」「私たちは元気にやっています。」

女は生前に憧れていた、男と我が子との三人の生活に備えていると言う。
コインロッカーは女が今いる世界と男の世界をつなげる唯一の場所だったのである。

いつの日か男は、女と自分の子と暮らすことが出来るのかも知れない。
でもその時に女が、子が、必ずそこにいる保証は無いと言うのだ。
そこには時間はない。そして、死も無い。あるのは次に生まれ行くための生なのである。
突然来る生は平気で家族を引き離すという。

たまたまそれを知ってしまったのはこの男だけ、そんなことを知らずにそれが普通と思って誰もが暮らしているという。
突然の生を受け入れて自分が消えてなくなる事が当たり前という。

そして、コインロッカーは予定通り解体撤去された。そこは人気のスイーツの店に変わり、新しいコインロッカー室はもっと広い明るい場所に移された。キーレスのAI管理の最新式のものとなった。

男の仕事も秋までになくなることとなった。
男はあの時の匂い、女の手紙に書かれていたことも実際だと思う。
でもすべてを知らされてしまった男はそこで二人に出会えてもいずれ降りかかる『生』をどう受け入れるべきかを二人との出会い以上に悩んでいる。

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