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生きるためにやって来た仕事のはなし

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なかなか理想を仕事とすることは難しいもの、食べるため、生きるためにしてきた私のサラリーマン人生です
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2022年12月の記事一覧

JR西日本 大阪環状線大阪駅

今年、ここで大阪環状線各駅の思い出を綴って来た。エセ大阪人の私にとって明るく好みの大阪のイメージのある『天満駅』からスタートした。30年以上も関西で生活し、仕事も建設業の営業をしていれば関西のどの地域や大阪環状線のどの駅にも何らかの思い出があるのは不思議なことではない。ゼネコン時代は京橋に会社があり京橋が私の活動のベースとなっていた。途中、設計事務所に籍を移し梅田の会社に通い、大阪・福島あたりの得意先をうろうろすることが多かった。 最後の二駅である福島駅・大阪駅は一つにまとめ

生駒山軽井沢町のおもいで

写真はJR八尾駅から見える生駒に連なる西陽の当たる山並である。 この風景を見ると時々、以前大変世話になった上司を思い出す。 私が三十、その上司は定年前であった。 関西にも軽井沢があるのをご存じない方は少なくないと思う。 上司はもともと建築屋、会社の創成期に大変ご苦労をされて土木主体の会社を建築でも名の売れる会社にした。定年前の営業部長のポストに就き悠々と定年を迎える予定であっただろう。そこに紆余曲折あって私が部下としてお手伝いすることになった。もちろん私が決めた事じゃなか

小春日和で思い出すあの日

1989年、京都御所の西にあるホテルの宴会場の増築工事の現場事務を担当していた。時はバブル、どの建設会社も断らねばならないほど仕事にあふれていた。京都は南北に長い、北は日本海、南は奈良に隣接している。当時の現場事務にはもちろんパソコンなど無く事務作業のすべては手作業で行った。 京都営業所の事務課長に嫌われていた。営業所の公費を自身の財布代わりにし、飲み代を協力業者に押し付ける事務課長を面と向かって新米の私はなじってしまった。そしてそのしっぺ返しは私の担当現場であった。北の舞

北の国からの便り

昨日、ゼネコン時代の大先輩からLINEで写真が一枚届いた。 「これが来年三月までとけることのない根雪になる」と。 住まい近くの札幌市内の公園だと言う。日本の広さを感じずにいることは出来なかった。 私より10歳ほど年上だと思う。当時の私のいた会社は野球部、バスケットボール部が強く野球では都市対抗に常連、バスケ部も何度も全国優勝を飾るチームだった。 この先輩はバスケ部出身、身長は180cmほど、バスケ選手の中に入れば決して背は高くない。しかし逆三角の背中とパンチパーマいつも鋭い