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生駒山軽井沢町のおもいで

写真はJR八尾駅から見える生駒に連なる西陽の当たる山並である。
この風景を見ると時々、以前大変世話になった上司を思い出す。
私が三十、その上司は定年前であった。

関西にも軽井沢があるのをご存じない方は少なくないと思う。

上司はもともと建築屋、会社の創成期に大変ご苦労をされて土木主体の会社を建築でも名の売れる会社にした。定年前の営業部長のポストに就き悠々と定年を迎える予定であっただろう。そこに紆余曲折あって私が部下としてお手伝いすることになった。もちろん私が決めた事じゃなかったが、迷惑だったに違いない。

真面目な上司だった。「私には君に教える事は何も無い。」とはっきり最初に言われたのである。そして同時に言われた。「ゆっくり、じっくり周りを見てなさい。慌てることは決してない。宮島君の生涯賃金など、そのタイミングがくれば一度に会社に返せるから。」と。

それからの仕事は外を歩き回った。自分が建てた建築作品を案内してくれた。後輩の建築屋達の現場に行って施工方法の説明をしてくれた。行政の担当部署や議員事務所や大阪の普通の人が出入りしないような事務所にも連れて行ってくれた。建設工事には何が起きるか分からない。「地震・雷・火事・親父」以上にいろんな人と接点が出来る、そのために知ることは必要だと教えてくれた。深く付き合う必要はないが知っている事にいずれ意義が生まれると教えてくれた。

私が三十歳、上司が年齢で現場責任者を務めた中之島界隈を散策すれば目にする大きな建築物の受注経緯を説明してくれた。業界の古いしきたりの中で決まっていく建築工事を、建築では新参者の当時の会社はなかなか受注出来ないでいたと言った。そして、その時の勇気ある支店長の命でそのルールを破って受注したのだと教えてくれた。しかし、仕事をするにも当時まだ若造であった上司しか建築屋はいなかったそうである。二年間、死に物狂いで仕事をしたそうである。その種の建物に必ずある設備、それを作った担当者は髪が抜けると業界でジンクスがある設備を作っている最中に本当に髪の毛が一本残らず抜けたと教えてくれた。

よく本を読む上司だった。会社に来るのにいつも手には日経の朝刊と文庫本だけであった。二人で移動する時、いつも電車の中では本を読んでいた。当時の私の給料は決して多くはなかった。上司は昼飯を一緒にすると必ず私に千円札を渡して「釣りはいらん」と私に預けてくれた。釣りはいつも二百円か三百円だっただろう。それを私は貯めておき、本を買わせてもらったのである。

天満の立ち飲み屋に連れて行ってくれたのもその上司である。湯に浸かり私たちを待ちわびる湯豆腐を頼み、コップ酒を二杯飲み、10分ほどで「帰るぞ」と言う。「こんな店で長居をして迷惑かけちゃいかん」と酒飲みのマナーまで教えてくれたのである。

たった一年間であったが、この上司には幅広くゼネコンの何たるかを教えてもらった。そして人の生き方まで教えてくれたのである。

でもいい人ほど早くいなくなってしまう。会社を引退して六十代で亡くなった。ご自宅での葬儀に参列させてもらった。それが生駒市軽井沢町だったのである。暑い時期だったような気がする。近鉄生駒駅から山道を汗をかきながら歩いた。式には多くの建築屋さんたちが先に着いていた。喪主の席には小さな奥さんが座っていらっしゃった。上背のある上司と頭二つも違うような小さな奥さんだった。二人並んで歩く姿を見てみたかった。一番年齢の若い私の事はすぐにわかったようで挨拶すると「主人からいつも聞いてましたよ。ご迷惑かけたでしょ。」と言われたら、いろんなお礼を言いたかったのに涙が止まらず何も言えなかった。

故郷愛知よりも長く大阪に居ついてしまった。愛知での思い出よりもここ大阪での思い出の方が多くなってしまった。関西のたいていの駅に、たいていの町に、私の記憶は点在する。大阪は街中からでも山が見える。東にある生駒の山はとても分かりやすい。いつも思い出すわけではないが時々生駒の山を見てこの上司の事を思い出す。そして、この大阪で過ごした短くない時間を思い起こすのである。

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