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JR西日本 大阪環状線大阪駅

今年、ここで大阪環状線各駅の思い出を綴って来た。エセ大阪人の私にとって明るく好みの大阪のイメージのある『天満駅』からスタートした。30年以上も関西で生活し、仕事も建設業の営業をしていれば関西のどの地域や大阪環状線のどの駅にも何らかの思い出があるのは不思議なことではない。ゼネコン時代は京橋に会社があり京橋が私の活動のベースとなっていた。途中、設計事務所に籍を移し梅田の会社に通い、大阪・福島あたりの得意先をうろうろすることが多かった。
最後の二駅である福島駅・大阪駅は一つにまとめさせてもらうことにした。
ここまで時間がかかったのはこのエリアにはつらい思い出が多すぎるのである。仕事でもプライベートでもいろんなことがあった。たくさんの人の集まる会社や施設、飲食店の集積する関西の顔である大阪駅であるからそこで何かが起きやすいのは当たり前なのかも知れないが、いつまでも私には辛く立ち寄りがたい場所でもある。

JR大阪駅にいちばん最初に降り立ったのはゼネコンに入社して東京本社の研修を終えた盆休み明けである。1986年昭和61年の晩夏のことである。
赴任式前日に大阪入りした私は同期たちと阪急百貨店東側にある広いコンコースの南端にあったいすゞのショールーム前で待ち合わせた。当時人気のあったビッグホーンがそこにあったのが懐かしい。東大阪市花園出身の同期、いまだに独り身を貫く男、舞鶴の火力発電所に飛ばされ必要に迫られ免許を取り気がつけば国際C級ライセンスでポルシェに乗るスピード狂の男が「俺について来い」と梅田の地下街を歩いていたら道に迷ったのが懐かしい。
それから私は5年間の京都営業所での現場生活を経て大阪支店に通い出し、いつまでも慣れない営業をした。

最初の上司が歳は若いが大阪支店で一番優秀な方であった。ゼネコンの営業には定石は無い。形ある製品を売る営業とも違う。だから営業マンによってその手法は様々であった。その上司は経理畑出身の男、法務にも通じ甘いマスクに話術も長けてどこの顧客にも信頼される営業マンだった。そして、人の気持ちもよくくみ取れる人間だったのである。私はこの上司に誘われ奈良のニュータウンで家まで買った。息子が幼稚園から中学までそこに住んだ。緑多く、通勤も苦痛ではない距離で今でもその場所は嫌いではない。それくらいその上司を信頼も尊敬もしていたのである。

大型の仕事を受注するたびにその上司の生活は変わっていった。出会った頃は付き合いある今は無い大手スーパーの吊るしのスーツ・ワイシャツを身に付け仕事が終わると京橋の居酒屋で私をねぎらいながら営業の経験談を聞かせてくれた。たまに北新地のはずれのおばちゃん一人でやってるコの字型のカウンターのバーに連れて行ってくれた。そのすべては上司の自腹がほとんどだった。

決して給料が悪い会社じゃなかった。しかし人間には欲がある。一度甘い汁を吸ってしまえばその味を忘れることは出来ない。頭のいい上司ではあったが、もっとずる賢く、人の本質を見抜ける人間はいるのである。ある工事でそこの所長からその汁を吸わされ、その後しばらくその所長との関係は続いていった。現場によって最初から赤字・黒字が明確な時があり、竣工時の精算が現場所長の成績となり、それによって賞与が天と地ほども違ったのだ。工事着工時にはほぼ見通しがつくのならば採算良く終われる現場の責任者となりたいのは当たり前なのかも知れない。そんななかでいつも利益の高い工事を受注するこの上司は悪い所長に目を付けられたのである。

上司の身なりが変わっていった、ブランド物のスーツにカバン、腕時計まで高級品に変わった。それまではコの字カウンターのおばちゃんの店で一万円を財布から出す時に、私をここに連れて来るならばくたびれた腕時計のバンドを取り換えてくれたらいいのにな、といつも思ったものだった。

行く店も変わりその高級クラブの若い女の子と付き合いだしたことは他の誰もが知らなかったが私は勘で分かった。他に生活の場所を作り奈良の家には帰って来なくなっていった。

一般的な社会通念で悪とされるものも、周りすべてが悪であるならばそれは悪ではなくなっていく、『朱に染まる赤』と同じなのである。

私は徐々にその上司から離れていった。そして嫌われていった。
営業として再び京都営業所に戻ることとなった。
そこで百戦錬磨の所長に裏の世界までも連れて行ってもらい建設業界の営業の本質みたいなものも教えてもらった。その後、ある日京都での私の受注物件をその頃総括部長となっていた別れた上司に大阪支店まで呼びつけられて説明を求められた。「断わり無く俺のシマで仕事を受注するのか」といった内容だった。そんな話はいずれ来るだろうと思いもう一人いた総括部長に全ての話は通していた。それを話して席を立った。そこで上司と決別した。

その後は大変だった。匿名での電話のタレコミもあり、忘れることの出来ない入札となった。

いろんな事があったが、時間が解決してくれる。
全てを忘れさせてくれる。
梅田での設計事務所時代に肥後橋の新聞社に通う際、時々昼間の北新地を抜けて歩いた。まったく顔の違う昼間の北新地でやはりここは私の行く場所ではないとつくづく思った。酒屋が押すビールケースを積んだカラカラ音を立てる台車を見ながらそんなことがあったな、ぐらいの記憶に変わって来ていた。『ここには夜には来たくないな』、と全ての記憶はそんな感情に置き換わっていた。


気がつけば『京橋駅』編の焼き直しのようになっていました。それくらい若かった私には強烈な記憶だったようです。
大阪駅でも多くの思い出があります。
いずれまたここでお話させていただきたいと思います。


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