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自己紹介(幼少~30代)

このnoteは、自己紹介と、noteを始めた理由、母が病気になって思ったこと、を記載しています。

初めまして。橋本と申します。

都内で主にシニア向けWEBサービスを運営している会社の、社内ITを担当しています。

こちらのnoteに、働いてきて思ったことや、取り扱ったツール、施策についてメモとして残し、これから同じような分野で働かれる方の役に立てたらいいなと思います。(開発したりWEBサーバーのインフラ管理などはやっておらず、社内ITヘルプデスク関連がメインの業務です)

noteを始めようと思ったのは、最近、母親が、3年弱の闘病の末(膵臓癌でした)亡くなりまして、自分もいつか死んでしまうんだな、ということを改めて感じ、noteを書くことで、同じようなことを思っていたり、悩んでいる人と、つながったり、人の役に立って、死ぬときにできるだけ後悔しないように生きていこうと思ったからです。

仕事以外の趣味について、スポーツ系noteと、音楽などのエンタメ系note も、別のページで投稿してけたらと思っています。

最初に、自己紹介を兼ねて、幼少期の出来事から、母との思い出を併せて書き綴っていこうと思います。

幼少期-小学校

母は、東京の品川区で生まれました。小学生くらいのころにお父さん(僕のおじいちゃん)は、病気で亡くなってしまったこともあったのか、それが普通だったのか、ちゃんと聞いたことがないのですが、中学を卒業すると働き始めたそうです。
そのころのことを聞くと、特に悲壮感はなく、アイドルのおっかけをして、出待ちとかをしていたそうです。

父は長野県の田舎で育ち、高校を卒業して、東京で就職したそうで、ふたりは、カメラの部品を作る工場で知り合い付き合いはじめたようでした。
当時の写真がいくつかアルバムにあるのですが、父は、ダブルのスーツでおしゃれをして、デートをしていたようです。

21歳のころ結婚して都会から、コンビニもない、田んぼだらけで、電車が1時間に1本しかこない田舎に嫁いできたそうです。

22歳で長男を生み、26歳で次男を生み、30歳で僕を生んでくれました。

いまの時代は、2人目は産んでも3人目は、なかなか少ないと思うので、両親が2人で産み納めしなかったことに感謝です。

父からは、なんとか3人目は、女の子が生まれてほしかった、という話を、よく聞いたような気がします。実際、女の子だったら、家族がどんな風に変わったのか、見てみたいものです。

保育園に4歳から入り、毎日僕は、ばあちゃん(父の母)のチャリンコの荷台に乗せてもらって、登園しました。ばあちゃんは、52歳くらいのときに、旦那さんである僕のじいちゃんを亡くしてしまって、日記に、じいさんがもっと生きてくれていたらな、と思うことがある、と書いてあって切なかった記憶があります。

保育園の後半くらいから、年末年始は、母の実家の品川に行きました。この頃からたびたび東京に来ていたことが、僕がいまも東京に住んでいることと絡んでもいるのかもしれません。

東京にくるときは、バスだったり、電車だったりしたのですが、新宿駅につくと、ホームレスがたくさんいました。当時は、新宿の西口の改札付近にも、たくさんダンボールで寝ている人がいて、なんだか凄く怖かったです。
新宿駅から山手線で品川にいって、京浜急行に乗り換えるのですが、その乗り換えの方法も、当時まったく意味が分からず、切符をかって、連れてってくれる母は、さすが東京に住んでいた人だなーっと、とてもすごいことのように思っていました。

母の実家につくと、東京のばあちゃん(母の母)と、母の姉さんの叔母ちゃんと、みんなでいつもすき焼きを食べました。後楽園遊園地、花屋敷、ディズニーランド、品川水族館、東京タワーなど、主要なところは小さいころに、連れてってもらいました。
当時は、みんなの気持ちはまったく考えていなかったですが、孫を連れてくるのは東京のばあちゃんは嬉しかったんだろうなぁと思います。母もまだまだ東京暮らしのほうが長かったので、もっと東京にいたい、と思ったりしていたんだろうと思います。

小学校の低学年くらいで記憶があるのは、母は、自動車の免許をとらずに過ごしていたのですが、僕が風邪を引いて、家から3キロくらい離れた内科に連れて行ってもらうときに、スクーターの椅子のところに乗せてくれて2人乗りしていたことです。なかなかスクーターで親子で乗っている人はいなかったと思うのでレアでした。母も自動車の免許をとるか、よく悩んでいたのですが、やっぱりお金がかかることが1番ネックで結局とらずに来てしまったのではないかと思います。
そのほか、たまに遊んでいて、友達に怪我をさせてしまって、母に謝りにいってもらったりしてしまったこともありますが、基本的に僕は、まじめで、規律を守ることが好きだったので、先生に怒られることも少なく、体育の成績もよく、活発に過ごしていけました。

また、母は元々工場で働いていたのですが、僕が小学生のころから、地元の温泉施設で働くことになり、接客業なので、土日が仕事になり、日曜日に遊ぶということがほとんどなくなっていきました。母は小さい頃、喘息だったそうで、ほとんど体育を見学していたようで、一緒にスポーツをしたり、という記憶もなく、趣味もあまりなさそうでしたが、歌うことは好きだったみたいで、地域のコーラスサークルみたいなやつに一時期はいって、奥様方と一緒に歌を歌っていました。

小学校4年生のころに、家の近くにカラオケ屋さんができて、1時間3000円とかしたと思うのですが、母と兄と3人で行ったことがありました。これが僕の人生初カラオケだったと思います。母は、坂本冬美とか、ひゅーるりーの歌とか、工藤静香とか、そのとき売れてるpopsもいくつか(なぜかシャ乱Qのいいわけとか)歌っていました。

子供のころは、両親というのは、自分が知っているかぎり1番の強者で、自分を守ってくれる存在だと思っていたとおもうのですが、そんな親が泣いているのを初めて見たのが、東京のばあちゃんが亡くなったときでした。ばあちゃんは胃ガンになってしまったようで、叔母ちゃんが看病してくれていたのですが、冬の寒い時期に、たぶん叔母ちゃんから亡くなった電話がかかってきて、聞いた瞬間に大きな声で泣いていました。
僕は小学校5年か6年だったと思います。初めてのお葬式になりました。あまり記憶がないのですが、火葬が終わって骨になってでてきたときに、母がまた泣いていたのが印象的でした。

中学ー高校

中学に入ってからも、母は日曜日は仕事だったので、あまり一緒になにかした記憶はないのですが、日々家族仲良く暮らしていました。
あまり楽しい思い出は、思い出せないのですが、僕は、中学1年でルーム長をしていて、たびたびクラス会の司会をしていたのですが、とても消極的なクラスメンバーで、意見が出ず、そのことがとてもストレスになっていました。今となってみれば、意見がないのであれば、自分でいくつか案を考えて、選んでしまえばいいのですが、当時は、どうして自分だけこんな役回りなんだろう、隣のクラスは、活発なのに、みたいになっていました。そのこともあってか、身体中に蕁麻疹が発生して、早退して内科にいったことがありました。そのときも、母も仕事を早退して、学校に迎えに来てくれたような気がします。心配をかけました。

そんなうまくいかない時期もありましたが、中学3年のときには、僕は生徒会長になり、部活では野球部にキャプテンになり、文化祭や卒業式など、代表で挨拶することもあったので、きっと母も成長に喜んでいてくれていたことと思います。

高校では、ずっと続けてきていた野球部に入りました。入部当時は平日は朝6時、土日は4時半には家を出る生活になったので、とても早起きをしてお弁当を作ってくれました。
毎日、練習で汚れたユニフォームを洗ってくれました。こんな体力的につらい生活をさせることになってしまったことと、私立で、学費も、部活関連の費用もたくさんかかるようになってしまったことの申し訳なさや、感謝の気持ちを、伝えられていたのか、今となっては全く忘れてしまいました。

野球は僕よりもうまい人ばかりで、1度も公式戦のベンチに入ることもできずに、部活は終了してしまったのですが、「最後まで辞めないでよくがんばったね」と言ってもらえました。

高校卒業後の進路を決める時期になってくるわけですが、当時、(今も同じかもですが)好きなことを仕事にしなければいけない、というテレビなどのメディアからの刷り込みがあり、高校の途中から通い始めたフィットネスクラブで、働いている人みたいなインストラクターになりたい、と思っていました。大学よりも、就職率99%が売り文句の、東京の専門学校に進学したい、と母に相談しました。
夏休みに、体験入学的なことをしていたので、行ってみたいたぶん唐突だったと思うのですが、了承してくれて、ひとりで東京に行きました。
入試さえ受ければ、おそらくほぼ落ちることはないであろう学校の入試を受け、高校卒業をして、僕は実家を出て、東京での生活はじまりました。

年間200万の学費を払ってもらう生活になり、気が引けましたが、住むところは、東京の叔母ちゃんが居候させてくれることになったので、一人暮らしではなく、安心して実家を出れました。
このときには、僕の兄(長男)は結婚して家を出ており、次男は東京で就職していて、僕も家を出たので、子供は誰も家にいない、という状況に、母は22歳から子育てをしてきて、48歳でなったということになります。

専門学校

品川の母の実家から、専門学校のある池袋まで平日は毎日通いました。

授業の内容は、筋肉やスポーツにおける怪我について勉強したり、マシンの使い方、スタジオレッスンや水泳の指導仕方、多少フィットネスクラブの経営についてなどを学んでいきます。

クラスが30人くらいいるので、すぐ仲良くなる人も増え、たくさん飲み会をして、青春を謳歌していきました。

ただ、専門学校は就職させることが目的なので、過度な髪型やピアスは不可で、とにかくすぐにフィットネスクラブでアルバイト(インターンシップ)を開始するように言われました。

しかし、最初のうちは、東京の生活を存分に楽しんでしまい、生活費を、母に振り込んでほしいと、度々電話していました。(電話するときはお金がなくなったときになっていました)

それ以外も、夏休みは、旅行がてら、スキューバダイビングのライセンスを宮古島にとりにいこう、と友達と盛り上がっては、お金を母にもらい、バイクの免許を取りたくなって、お金をもらい、だいぶ親の脛をかじる生活をしていました。

その後、専門学校1年の9月くらいから、住んでいたところからチャリンコ圏内の、フィットネスクラブで週4でアルバイトするようになり、少しずつ、社会人に向かっていきました。途中から、スタジオレッスンができる資格をとり、週3でプログラムを実施していきました。MAX50人くらい入るスタジオで、お客さんが飽きないように、アイスブレイクしたり、初回の方には事前に案内をしたり、インストラクターっぽくなっていきました。

専門学校1年生の冬に、実家のばあちゃんが、79歳で心臓の病気で亡くなりました。僕は小学校後半から中学の途中まで、ずっと同じ部屋で一緒に寝ていました。野球で肘とか肩が痛くなって、よくマッサージしてもらってました。告別式では、孫一同で弔辞を読みました。

ばあちゃんは、僕の兄弟が3人、父の妹2人に、2人の子供がいるので合計7人の孫がいました。
働いていた地元の工場を定年退職してからも、地域の活動だったり、農業のアルバイトだったりずっと元気に働いていました。小さいころ、僕は学校から帰ってくると、基本的にばあちゃんとずっと一緒にいました。毎週週刊少年ジャンプを買う200円をもらっていました。ペットの猫もよくかわいがっていて、台所にたっていると、よく肩のところに猫が飛び乗って、そのまま料理を作ってました。
死んでしまったら、誰々には保険や貯金から、いくらいくらあげてください、といった内容の手紙を残してくれてありました。
僕が経験した、2回目のお葬式となりました。

専門学校1年の、2月くらいから、就職活動のエントリーシート入稿がスタートし、3月からは一次面接が始まっていきました。
専門学校に入る前と、途中までは、実家のほうに帰って就職を考えていましたが、このころは、大手のフィットネスクラブに入って働いてみたい、と思うようになっていました。
いくつか受けたのち、アルバイトをしていた、フィットネスクラブの新卒採用に受かることとなり、僕の就職先は、7月くらいにはきまりました。

そこから先は、学校と、週4は引き続きアルバイトを繰り返していました。

専門学校の卒業式では、代表して卒業証書を受け取る役目にアサインされ、母が見に来てくれていたので、ちゃんと学校生活を送っていたことを伝えられたかな、とおもいます。

僕としては、東京で働いていたかったのですが、就職先の配属が、地元の店舗になったため、店舗の近くに部屋を借りて、引っ越しとなりました。 居候させてもらっていた、叔母ちゃんにも大変お世話になりました。

就職

大手のフィットネスクラブで、全職種で200人くらい新卒がいたと思います。全員が、那須の研修所に缶詰めにされて、企業のことやビジネスマナーを学んだり、職種別に分かれて、マシンやスタジオのレッスンの練習をしたりしました。僕は、基本的にニコニコしており、レッスンもアルバイトでやってきたので、他の大卒の人よりも、ロールプレイもうまくできました。

その後、店舗に配属となり、基本的にマシンエリアに立ったり、プールガードしたり、たまにフロントに立ったり、アルバイトの時と同じ業務をしていました。
スタジオレッスンがやりたかったのですが、最初の3ヶ月はスケジュールが決まっていて、レギュラーで入れなかったのでストレスになっていました。

私生活では、初めて一人暮らしということで、慣れない料理を楽しんでいきました。ただ、近くに友達がいるわけではなかったので、基本的に休日も1人だったり、電車で1時間以内には、実家に帰れる距離だったので、実家に帰ったりしていました。

仕事のほうは、OJTをしてくれる上司は、大変いい人で、業務も優しく、合コンに誘ってくれたり、楽しかったのですが、評価者であるマネージャーは高圧的な人でした。今までいくつかアルバイトをしてきた中で、基本的にまじめで、コミュニケーションもとれるほうだったと思うので、よくやってくれてありがとう、といった雰囲気で、見られてきたとおもうのですが、当時マネージャーは、僕のことが何か気に入らないんだろうな、という態度をずっととられてしまって、嫌になってしまいました。

毎日、日報を提出させられるのですが、数値目標を達成しろ、みたいなことをよく言われ、「メンバーさんの名前を今日は新規で10人覚えます」みたいなこととか、「有料プログラムを10人に提案します」みたいな目標を立てて、どのお客さんにどんな会話をしたのか、など提出していて、息苦しくなりました。

また、他のインストラクターの方の、スタジオレッスンでたくさん憧れるひとにあってきて(日本中を、有料でスタジオツアーしてる人がいました)、こんな人になりたいなどと、どちらかというと、エンターテイナー的な要素をもとめて就職したのですが、レッスンの内容は、正社員だと評価されるわけではなく、どれだけ有料プログラムを売れるかが評価の対象でした。営業活動が、すごく苦手で、こんなことのために働きたいのではない、などと当時は思ってしまっていました。
また、当時オシャレをすることに興味があって、雑誌には、美容師の人たちオシャレキングと謳われて、活躍されていました。専門学校のときは、基本的に奇抜な髪型は接客業のためNGであったりしたこともあったのですが、そのような雑誌の人たちにあこがれて、美容師になりたいとおもうようになりました。

また、こんな地方ではなくてとにかく東京で過ごしていれば、自分の人生が輝くのではないか、とおもっていました。

考えは、すごく浅はかだったとおもうのですが、当時支店長や、会社の人事の人には、「マネージャーとの関係うまくいっていません」という相談ではなく、「もうやめて美容師目指そうと思います、」という感じで相談してしまったようなきがします。

母には、「東京に戻りたい、でもお金はないから、もう一度、東京の叔母ちゃんの家にお世話になりたい、と相談して、了承してもらい、父にも怒られながら、なんとか許してもらいました。両親ともに、大変お金をかけて、学校を卒業させたのに、就職した会社をやめて、とても落胆したとおもいます。

僕は、基本的にまじめで、会社をすぐに辞めるようなやつはだらしない、と思っているタイプだったわけですが、新卒で就職した会社を、半年後の9月に退職しました。
そして、東京でフリーターになりました。

フリーター時代

叔母ちゃんにずっとお世話になるわけにもいかないし、美容師になるにしてもとにかくお金がいる、ということで、稼げる仕事は何だろとおもい、アルバイト雑誌をみると、コールセンターの時給は、1300円でした。
1300円で8時間✖︎22日働くと23万円、プラス残業代全額支給などと宣伝されていました。
アルバイトのときの時給は900円で、就職先は月給17万円だったので、めちゃくちゃ高くかんじました。
また、パソコンが使ってみたいという気持ちがあり、ヤフーのADSLを使う人のサポートをする、コールセンターでアルバイトを開始しました。(当時、街中で、とりあえずこのモデム持ち帰ってください、みたいな営業が盛んに行われていたみたいです)

初日、研修会場のようなところに向かって、パソコンを使いはじめたときの記憶が鮮明に残っているのですが、「フィットネスクラブで働くはずが、全く毛色違いの、パソコンのサポートなんてやっていけるのか、どうしてこんな人生になってしまったんだろう」と絶望していました。

10日くらい研修して、先輩方々の電話を受ける様子を隣で聞きながらOJTは終わり、一人で電話対応してく日々が始まりました。

問い合わせの内容は主に、インターネットが繋がらなくなった、繋がるけど遅い、初期セットアップしてるけど繋がらない、といった内容でした。

このときは、この対応、といったフローが作られているので、それにそって案内していきました。最初は、うまく回答できなくてお客さんに怒られたりして、電話は向いてないな、と思ったのですが、対応した方からのアンケート結果で、初月から、だいぶ、よい数値とれて、向いているのかもしれない、と思うようになりました。

また、コールセンターには、ミュージシャンを目指しているひと、役者を目指している人、映像を作りたい人など、バイタリティがあって、学校で人気者だったんだろうな、という人が多く、仲良くなれる人がたくさんいました。このころ、mixiが全盛期で、会社で仲が良い人は、みんなmixiでつながっている、みたいな状態になり、家に帰っては、パソコンに張り付いてました。

最初に働いたところは、ヤフーと契約終了になって、みんな散りぢりになったのですが、再度たちあがったりして、それからは、研修や上席対応を担当することになり、結果3年ほどコールセンターで働きました。

途中、東京に住んでいる友達が、兄弟で住んでいたのですが、兄ちゃんがUターン就職することになり、部屋が空いたということで、その部屋に転がり込ませてもらうこととなり、叔母ちゃんにお世話になる日々は終わらせることができました。

コールセンターで働いているときに、元々目指そうとした美容師の専門学校をいくつか見学にいって、夜間とか、通信とか、方法を聞いたりしました。
あと、芸能人にも憧れていたので、ボイトレとか、役者になるための体験入学にも行ったりしました。
しかし、結果なにも努力できずに、フリーターであることの負い目が襲いかかってくることに負けてしまったことと、コールセンター以外のスキルをつけたいと思い、正社員を目指すようになりました。

紹介予定派遣という、派遣から双方同意すれば正社員になれる、という雇用形態で探し、1社目は、よく内容を確認せず入ったところ、コールセンターだったため半年で辞めて2社目で、現在と同じ、情報システム部での業務ができる、従業員100人くらいの会社へ就職することができました。

僕が現在の仕事で、一緒に働く派遣社員の人を、採用するとしたら、少なからず1社は情シス経験していてほしい、とおもうので、当時採用してくれた方には、本当に感謝しています。

情報システム部(社内IT部門)での業務開始

主に入社する人のPCを準備したり、困ってる人のサポートする業務をしていました。しかし、入社するとすぐに、会社の売り上げが悪くなってしまい、情シスは管理部門なので、コンテンツ側の業務に人員を割くためのリストラが遂行され、僕は、顧客管理の部署に異動になりました。
主に、コンテンツを使いたいと申込してくれた方の本人確認書類チェックしたり、入金出金などのオペレーションをする業務(1件ごと手動で入力)をしていました。1年ほどたつと、さらにリストラが遂行され、整理解雇とよばれる、一律で5%~10%月給カット、早期退職募集、本人の意思にそぐわない部署への異動命令など、なかなかお目にかかれないような経験をしたのですが、僕は早期退職に応募すると、「辞められると困るのでぜひ残ってください」と言われ、特にやりたいこともなかったので、会社に残り、結果この部署で3年働き、最後、もう一度情シス戻してもらえて、転職することになりました。
このころ29歳のとき、会社で出会った方と、入籍しました。

情シスとして働く2社目は、29歳のときで、スマホアプリを作成している500人くらいの会社でした。基本的にやることは同じで、入社する人のPCを準備したり、ソフトウェアライセンスを管理したり、困っている人のサポート対応です。リーダーがいて、僕がいて、派遣社員の方2人の4名体制でした。

私生活では30歳のときに、結婚式あげました。
僕も妻も、教会で誓います、というのが何か価値観と違う感じがしたので、神社で結婚式をあげました。フリーター生活も長かったので、負い目がありましたが、特に両親に多額の援助をしてもらっての結婚式ということではなく、開催できたので、人生の中で、1番親孝行できたのではないか、とおもいました。出席してくれた、友達や出会った当時の職場の方、親戚など感謝の気持ちを伝えたかったので、専用webサイトを妻がwordpressで作り、ひとりひとりにメッセージを残していきました。
母から筆まめだね、と褒めてもらえました。

その後は、仕事も順調で、会社はTVCMを流していたので母に見てもらえると大きな会社で働いていることを誇らしげに思ってもらえているようでした。コーポレートサイトの社員紹介にのったときにも見てもらって、安心してもらえました。

学生時代、だいぶお金かけてもらって、20代フラフラしてきたけれど、30歳をこえて、だいぶマシな生活ができるようになってきました。

母は冬は職場まで、1.5キロくらいの道のりを寒い中、歩いて通うので、カナダグースのあったかいダウンを買ってあげたり、どこかゆっくり旅行に行ったりできたらいいな、と思っていました。
そんな頃 2016年11月、父親から電話がかかってきていました。

自己紹介②に続きます。

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