見出し画像

母が病気になってしまった話。

母が膵臓癌になってから、思ったことをこちらに書いています。
前編の、自己紹介はこちらです。カバー写真は、僕が20歳、母が51歳くらいのときの上京してきた頃の写真です。


母の病気発覚(2016年11月)

父親から電話がかかってくることはほとんどないので、なにか嫌な知らせだろうな、と思いました。電話にでると、母の病気のことを話す前から泣いていました。1か月前くらいから、調子がわるくなったそうで、近所の病院にいっていたそうです。そのうち、白いうんこがでるようになり、また勤め先で目のまわりが黄色いといわれ、大きな病院で検査したそうです。

診断結果は、膵臓癌で、手術はできず、余命2年ほどとのことでした。

11月18日くらいに、膵臓からの管がつまってしまっているので(このせいで正常に消化できず、うんこが白くなるそうです)ステントを入れる手術をしていました。1回目は担当した先生があまり経験がなかったひとのようで、ステントを入れられず、2回目で成功となったそうです。

もう手術もできない、ということでセカンドオピニオンにいったそうですが、結果は同じだったみたいです。

12月から、放射線や、抗がん剤が始まりました。みるみる痩せていき、毛が抜けていきました。そのあとも、ステントがたびたびステントが詰まって、食べれなくなり、痩せて、入院して、手術して、少し回復ということが続いていきました。

ガンが発覚して、半年後くらいには、放射線も抗がん剤もやめて、食事もできるし調子がいいということでした。このとき、大河ドラマの影響で、上田城が流行っていたので、母を車に乗せて、妻と3人でドライブに行きました。僕は、高校を卒業してから、東京で過ごしていたので、ほとんど、僕の運転で母を連れてあるいたことがないのですが、この上田城に行ったときが、ドライブは最後でした。

その後も、母の日など、例年通り実家に帰って、花をプレゼントしたりしました。病気で、痩せてはいるのですが、少しはごはんも食べれるし、会話も問題なく、(母はひたすら最近あったことをしゃべり続ける人でした)このまま別に死なないのではないか、と思い始めました。

病気がわかってから、最初の頃は、月に1回くらいは帰省しよう、と思ったのですが、徐々に母が病気であることにも、僕自身慣れて、兄も父も近くにいるので、まかせっきりになっていきました。また、このころ転職して、残業が多くなってしまい、土日に帰省して、また次の日仕事、というのが体力的に辛くなってきていました。母にはあまり会えにいけず、申し訳ないのですが、母がたとえ死んでしまったあとも、僕は東京での生活が続いていくわけなので、自分の生活はしっかりしておかなくては、と思っていました。

そして、2018年11月も過ぎ、余命の2年が経過しました。

その後、2019年3月に、母が兄の車で、念願の東京の実家に来ました。いままで予定を立てても、体調がわるくなって入院したりしていたので、きっと嬉しかったと思います。小さいころから、一緒に連れてきてもらっていた、母の実家近くで、焼き肉を食べました。母は腰が曲がって、もうあまり歩けないので、タクシーで移動しました。

病気が分かって、3年を迎えようとした、9月、1時間おきに飲んでも痛み止めが効かない、というメールが母から来ていました。母は放射線の影響なのか、病気してすぐ、腰の骨が圧迫骨折したままのような状態になっていたようで、その影響なのか、ガンの影響で内蔵が痛いのか、僕はよくわかりませんでした。「そっかぁ、なんとか良くなって、ごはんも食べれるようになるといいね」みたいなメールをテンプレートのように返す日々が続きました。

そんなころ、お腹に水がたまったので、水を抜く手術をする、と兄から連絡がありました。父も、実家近くに住む兄二人も、母が入院しようが、調子がわるくなろうが、僕にあまり心配かけないように、特に連絡はしてきませんでしたが、このときは連絡があって、母に会いに来れないか、ということでした。

1か月くらい前のお盆のときに、母と会って特に変わりなく見えたので、だいじょうぶでしょう、と思ったのですが、仕事の調整もついたので、2日有給をとって、土日とからめて、4日間帰省することにしました。
病院につくと、聞いていた病室に母の姿はなかったのですが、同じ病室の人が、別室にいるとおもうと聞き、探してみました。
ベットで少し体を起こした状態で、点滴をした母がいました。1ヶ月ぶりでしたが、それほど見た目は変わりなく見えました。女性のリハビリの方が、母の足や腰をマッサージしてくれていました。
この女性は、20代前半くらいで、高校時代はバスケをしていたとかで、受け答えもハキハキしていて、母もお気に入りのようでした。
看護師さんなど、敬語とタメ口の間みたいな、いいかんじの言葉遣いは、僕にはできないので、すごいスキルだと思います。血圧を計ったりして、病室に戻ると、男性の看護師さんは、僕のことをみて、「お孫さんですが」と言っていたようで、母はこころを痛めていた。(たぶん痩せて10歳くらい老けて見えるということなのだと思います)

お腹にたまった水は、3リットルくらい抜いたそうでした。お腹に水がたまると、お腹が張って苦しいけど、でも抜くと、死に近づくみたいな説もあるみたいでした。

母は読書が好きでよく図書館で小説を借りて読んでいました。僕も小説が好きなので、よく母に本を渡したりしていたのですが、この日は忘れてしまって、母から「なにか本もってきてくれた?」と聞かれ、「ごめん、忘れちゃったんだよね」「そっかぁでも体も疲れてて、読む元気もないから大丈夫だよ」といった会話をしたりしました。今おもえば、読めないくらいどっさり本をもっていけばよかったです。

次の日もお見舞いに行って、家に帰ってきて、父と兄の奥さんと、3人で夜ごはんを食べました。「腹水がたまったら、もう長くない。。」と父さんは泣いていました。病気になってから、父が泣いているところは何回も見てきたので、また泣いてる、、と軽く考えていました。ただ、父は、デイサービスの会社で施設長をしており、お年寄りも身近で見てきたり、どうやらこのころには、主治医の先生から「もう病院にいても施す処置がない。もって2か月くらいです。看取り方は、家にするか、病院に入院したままにするかどちらにしますか」と聞かれていたようでした。

僕は何も知らないので、能天気に「父さんは、もうすぐ死んでしまうって最悪パターンを考えて気持ちを落ち着かせているんだろう」と、思ってました。

母は水を抜いたら、退院するということだったので、病院にあるような、自動で背中が起き上がってくるベッドをレンタルで借りて、リビングに設置したりしました。

その後、お見舞いに行ったとき、母は入院してから、久しぶりのお風呂のスケジュールの日がありました。「やっとお風呂入れてよかったねー」などと思っていたのですが、母は、やっぱりお風呂やめておく、と言っていました。

このときに、「え、久しぶりのお風呂をやめたくなる、というのは結構調子わるいんだな」と思ったり、入院してる間、ずっと点滴していたので、これで退院して大丈夫なのか、とちょっと思ったのですが、東京に戻る日になったので、また来るねー、などと言って、いつもの感じでお別れしました。これが、母と交わした最後の会話となりました。

母の最期の実家生活

2019年10月1日、母は退院して、家に戻ってきました。このタイミングで、父は、会社を辞めて(定年後も働いていました)母を看病を開始しました。1週間くらいの間は、「家で生活できそう?」などと母にメールしては、返信もあって、ただ「いま車いすでトイレに連れてってもらった」などとのことだったので、「え、トイレにいくのに車いす?!ってどういうこと」などと思いつつ、まぁだいじょうぶなのかな、と思っていました。(どうやら呼吸が浅くなっているので、酸素を取り込めず、少しでも動くと、すごく苦しくなる、ということのようでした)

兄に聞いても、なんとかだいじょうぶそう、ということでしたが、リハビリの人も来てくれますが、父が、母のおむつをかえたり、夜もずっと付き添って看病していたようでした。僕は、そんな壮絶な退院生活が始まったということは知らずに、呑気に暮らしていました。父も仕事を辞めたこともあり、退職祝いと退院祝いを11月にやろう、などと兄と予定を立ててました。

しかし、2019年10月13日(月) の3連休を襲った大型台風の中、兄からLINEが入りました。

「今日、訪問介護の日で、母さんもう本当に今日か明日のうちに、死んでしまうかも、って診断されたから、帰ってこれたら帰ってきて」

僕は、「え、唐突!そもそも、明日死にます、とかわかるものなのかな。でも最近、母から空メール来て、返信しても何も返事なかったな、やっぱり調子が悪いのか。」などと思って迷ったのですが、連休明けの翌日は、仕事で来客予定や、その他対応があり、ちょっと会社に行って引き継ぎしてから考えようと思いました。母の姉の叔母ちゃんは、連絡を受けて、東京からすぐに会いにいってくれたみたいです。

翌2019年10月14日(火)、朝方、兄から、「母さんまだ大丈夫だから、医者がなんて言ってもそんなことわからないし、仕事落ち着いたら来てくれ」と連絡が入りました。昼には「かなり弱って辛い感じだけど、がんばってるよ。俺もこれから仕事行ってくるから、もし帰ってこれたら、母さん頼むなとのことでした。

あとから聞くと、もうずっと僕は見たことがないくらい、母は辛い表情をしていたみたいでした。ベットから動けないので、おむつの生活なわけですが、少し体勢を変えると、どこかがすごく痛いみたいで、あとは呼吸が浅いからずっと苦しいということのようです。前日に、強めの鎮痛剤を注射されて、この日はよく眠れていたようです。

僕は、会社に行き、「母があとちょっとで死んでしまいそう」と連絡があったので、早退したいとお伝えして、いくつか対応をして、15時くらいには早退できることになりました。今日は、死ななかったとして、明日とか死んでしまって、お葬式になったら、しばらくお休みいただかないといけないな、と漠然と考えていました。そうしたら、会社で企画している直近で開催予定の全社BBQ大会も参加できないな、などと、まだぼんやりと考えてきました。

そして、ちょうど会社を出たころ、兄から電話がかかってきました。

「帰ってくるまでもたせてあげられなくてわるかったけど、母さん、いまさっき死んじまったからな」

ということでした。この電話をくれた兄は、真ん中の兄で、実家の隣に、自分の家を建てて、ずっと母を見守ってくれていました。真ん中の兄ちゃんは、僕と同じで、あんまり感受性が高いほうではなく、怒ることがほぼないタイプなのですが、電話越しに、泣いていました。

僕は、「なぜ昨日帰ることにしなかったんだろう」と、母が病気になってから、1番大きな後悔をしました。

「母さんごめん」と思いながら、家に帰って、喪服の準備をして、実家に向かいました。


死んでしまった母と対面

実家につくと、母は、ばあちゃんのときと同様、座敷に、寝かされていました。顔を見ると、最近見た母の顔と、ほとんど変わりなく、僕は思ったほど、死んでしまったことを悲しむこともなく、おでこをムニムニしたり、髪をなでたり、カチコチになった指を触ったりしました。

亡くなるときの様子を聞くと、すごく痛い表情をしていた、ということはなかったようで、もうすぐ先生が来てくれるのを心まちにしていたみたいです。会話も普通にできていたようでした。亡くなる1時間くらい前には、父が先生に呼ばれて、あと40分くらいです、と言われていたようでした。

夜には、一番上の兄も実家について、兄弟3人で母を囲んで、結局どうして病気になってしまったのか、残念だった、と悔やみました。

僕は、仲の良い地元の友達に、亡くなってしまった旨を伝えました。母は温泉施設で働いていたので、定期的に僕の友達にも会っていたので、今日は誰々が来た、などとよく聞いていました。

友達は、みんな急だったのに、香典を持って線香をあげに来てくれました。ひとり、ものすごく切ない気持ちになったのか、すごく号泣してくれて、徐々に死んだ実感がわいてきました。人が悲しんでる姿を見ると、そのあともたびたびもらい泣きしそうになりました。

そのほか、母の職場の方、もともとの工場の職場の仲間だった方など、線香をあげに来てくれました。母は、愛されていたんだな、と思いました。多くの方が、「キレイな方だった」とおっしゃっていて、「そんな印象をもたれていたんだ」とびっくりしました。

喪主は、父ではなく、兄が務めることとなり、葬儀屋さんと、お葬式の段取りをしたり、役場の手続きをしたり、地域の有線放送でお悔やみ、を流し、亡くなったことを伝えるのか、など調整していきました。一番一緒に過ごしてきた父は、おそらく誰にも死んでしまったことを伝えずに、家でひっそりとしていました。できるなら火葬される前にたくさんの人に会いにきてほしい、と思った僕とは大違いでした。ただ、そんな父が、遺影の写真を決めるときに、1度、みんなで写真を決めたあと、「やっぱり病気になってからの写真は嫌だ。」と言い始めました。母への愛情表現みたいなものを、全く見たことがなかったので、好きな人が病気で衰えていくのが辛かったりしたんだなぁと思いました。結果、僕の結婚式のときに、父と妻と4人で下見に来たときに撮った、5年くらい前の写真が採用されました。納品された遺影を見ると、ぼんやりしてしまっていたので、定期的に家族写真を撮っておいたほうがいいな、と思います。

その後も、たびたび横になっている母の顔を眺めては、ムニムニしたり、肩を揺らして、呼びかけてみましたが、起き上がることはなく、でも物理的に存在しているので、亡くなった実感がそれほどなく弔問される人の対応をしたりして過ごしていきました。

翌々日、通夜となり、親戚一同が集まりました。棺に母を入れて、花とか写真や、思い出の品などを入れました。棺に移すときに、布一枚に乗った母を見たとき、だいぶ痩せて小さくなっていて、こんな姿になって、と涙している人が多かったです。実家は曹洞宗で、いろいろ衣装とか靴とかはかせていくのですが、これから修行にでる、という意味らしかったです。(昔は髪の毛も剃っていたそうです)

棺に全部セットされた状態の母の姿は、神々しく、写真とっておこうかと思ったのですが、自分が死んだら、死んだ顔は撮ってほしくないかな、と思って、やめておきました。

お葬式

その次の日、火葬場に向かうため、霊柩車に乗せる作業をしました。近所の方5名くらいがお見送りに来てくれていました。この母がもう家に帰ってくることはないんだな、と思った瞬間が、一番悲しいときで、火葬場に向かう途中、僕はずっと泣いていました。

火葬場につくと、すかさずお焼香が始まりました。みんな終わって、最後に喪主の兄が、3歳の息子を抱っこして、母の顔を見せていました。どう思っているんだろう、と思いました。蓋をしめます、というときに、母の姉のおばちゃんが、「喜久~」と母の名前を呼んで、棺をゆすって起こそうとしていました。叔母ちゃんは、母の父親代わりのように、強く想ってきたんだと思います。

火葬が終わり、母は骨になりました。お骨の入れ物に、ちょうど入りいるように、骨がまびかれているんだな、などと冷静に考えて、みんな骨を拾ってもらったと、残りの骨をどんどんお骨に入れていきました。

告別式では、兄のふたりの子供と、僕の従妹の女性が、弔辞を読んでくれました。お坊さんに渡すお金は40万円みたいですが、やっぱりお経だけだと寂しいので、弔辞はお葬式っぽくて素敵だなと、思いました。

お坊さんが返ったあとは和やかな雰囲気になったので、僕はみんなにビールをついで、感謝の気持ちを伝えていきました。みんな子供を連れてきてくれているので、子供がいると、暗いお葬式ではなくて、にぎやかになっていいなと思いました。

告別式が終わって、お骨を実家のお座敷にセットして、四十九日まではこのままとなりました。僕は、幸い仕事でどうしても出席したり対応しなければならないようなことがなかったので、慶弔休暇をMAXとらせていただいて、その後も、5日間、実家にいました。少しだけ訪れる弔問の方の対応をしたり、夜は、父と酒を飲んで、悲しみを和らげていきました。近所の居酒屋に行ったとき、父の友達もいたのですが、「ボーっとして、家の片づけとか、手続きとか何もやる気がでない」と嘆いていました。ちょうど仕事も辞めていたんで、これからどうするんだろうな、と心配になりました。

リビングに設置していた、病院にあるようなベットもレンタル業者さんが回収に来てくれました。父は、あと1か月くらいはここで看病できると思ったんだけどな、と寂しそうでした。

片付けをしているときに、母が僕にあてて書いてくれてあった手紙がありました。その手紙には、「私が死んでも、父さんと話しにたまには帰ってきてあげてください」といった内容が書かれてしました。よくケンカしているふたりでしたが、形はどうあれ、お互い好きだったんだな、と思いました。

母からの手紙

毎日、母のお骨を見つめて、僕は骨を少し持ち帰ろうか、どうしようか迷っていました。火葬場で見たときに、とても球体で美しい骨、がありました。一応、父にも許可はとってあったので、途中で骨壺をあけてみました。上のほうには、頭蓋骨の薄い骨があり、少し出してみましたが、球体の骨がなさそうで、ちょっと気が引けてきたのと、その骨を毎日みて、暮らしていくのは違うかな、と思い、やっぱりやめました。

そんな日々をすごして、僕も東京に戻る日が来ました。兄から、「ゆっくり実家にいてくれてありがとう」と言われて、こんなただボケーっとしていることにも意味があったのかな、と思って嬉しかったです。


四十九日

2019年11月29日、翌日が四十九日になったので、会社をフレックス退社してバスで実家に戻りました。位牌が納品されていて、戒名が書かれていました。

翌日、10時30分に、お坊さんが来てお経をあげました。仮の木の位牌から、今回納品された位牌に魂をいれる、という意味あいがある行為をしていました。仏教的には、母は、位牌になった、ということみたいでした。

近所のお墓までみんなできました。お骨は入れ物からだして、お墓のお骨スペースにばらまいて、土にかえすのがよいよい、とのことで、ばあちゃんの骨が骨壺のままだったんで、まずだして、母の骨を、兄ちゃんが、お墓の骨スペースにまいてくれました。特に泣いてる人もいなくて、淡々と進められていきました。

温泉施設に移動して、会食が始まりました。この施設で料理人として働いている、兄が仕込んでおいた料理がどんどん出てきました。上座の方に、母親の遺影と位牌があって、見守られていました。法事のときくらい、母のお話をしたいのだけど、なかなかいい感じに話す言葉が出てこなくて、ひとりで思い出して、しんみりしたりしていました。

隣が上の兄の義姉であったのですが、寂しさは収まったのか、などと聞いてきました。東京に帰ってからは、もう僕は日常に戻っていることを伝えると
兄は、母のスマホをもらってきたようで、その中に入っている写真をみて、ため息をついてぼんやりしているようでした。

真ん中の兄が、喪主の挨拶で、「母は橋本家の大きな存在であり、その母はいなくなってしまったわけですが、変わらぬお付き合いをお願いします」と言ってくれていました。ばあちゃんが死んでしまってからも、家に父の兄妹家族が集まってくれたのは、母がいてくれたからだと思います。

おひらきになって、親戚が帰っていきました。

しばらく酒に酔った僕は、実家のリビングのこたつで横になってウトウトしていました。すると、いつもの口調で、父親が、おきろ と声をかけてきました。何かあるのかと思うと、兄ふたりもそろっていて、父の手には、封筒が3つありました。

「これ、母さんが残してくれたぶんだから、、、四十九日でひと段落で、おれも生活していかなといけないから、たくさんは渡せないけど、、家族で使ってください」と、中には、お札が入っていました。

父は、唐突に泣いていました。
母が保険金に代わってしまった、という涙なのか、こんなことでお金は準備したくなかった、という涙なのか、よくわかりませんでした。

僕たち兄弟は、無言で、封筒を置いて、なごやかに進んできた四十九日で、初めて、しんみりした空気になりました。

泣いている父にボックスティッシュを渡すと、そのティッシュでトンっと、頭を叩かれたから、すごくしんみりしちゃってるわけではないんだな、と思い、少しほっとしました。

その夜は、また法事をやった温泉施設にいって、温泉に入って、食堂でごはんを食べました。あんまり話しは出てこないけど、ぼくはとりあえず父とビールを飲みあっていれば、親孝行になるのではないか、とおもって、ごはんを食べました。

翌日、リビングにあった荷物を、なんでもかんでも、父の寝室に押し込んであったので、座敷に移動しました。母の荷物を見て、父はぼんやり座っていました。

そして、母の姉の叔母ちゃんがが東京にもどる時間になりました。母の病気が発覚してから、本当に毎月実家にきてくれて、色々なものの場所も察知しているのか、洋服だったりの整理をしてくれていました。
何を持っていっても、誰もがOKすると思うのですが、叔母は律儀に、これをもらっていいか、あれをもらっていいか、父に聞いていました。

ゴルフ中継を見ながら、「今度父さんと一緒に行ってきなよ、前はいってたんだよね」といわれ、いきたいんだけど、父さんはもう体力がなくてね、、と苦笑いをしていました。

年一回旅行にいこうとか、母がいなくなっても、叔母は気遣ってくれていました。そうだよなぁ、もうなかなか会うことも少なくなるよなあと思いました。叔母は、いまでも痩せても、太ってもいなくて、法事の料理も、全部食べ尽くせた、といっていました。母と同じDNAなのに、母は、なぜ病気になったのか、改めて思いました。帰りの電車の時間になり、父が送迎していきました。

上の兄から、「遺影が並べられているのをみたら、また寂しくなってしまった」とLINEが来ました。母が死んで寂しい気持ちを分かち合えるのは、兄弟くらいしかいないんだよなぁと思いつつも、「がんばって生きていこうも、悲しいだけ悲しもうも、何か違うきがして、なかなかかける言葉が見つかりませんでした。

兄は、長男だけど婿として、家を出てしまい、ずっと母に申し訳ないと思って、その後悔が消えないのではないか、と思います。
その申し訳なさを消すというか、母が望んでいるのは、とにかく幸せな家庭を築いていくことだと思うので、ぜひ、今まで以上に、幸せな家庭を築いていってもらえたらとおもいます。

夜は、温泉施設で、風呂に入って、食堂で、兄さんが作るごはんを食べました。父が脱衣所で、服を脱ぐと、肩幅はあるのに、足は細い、という僕と同じ体つきがをしていましたただ、その脚は細すぎて、女性マラソンランナーのようでした。体重計にのると、48キロだそうでした。何かの病気でないといいのですが。。

その翌日も有給をとって休んでいたので、実家にいました。

今日は、日常にもどり、父さんは朝はパンの生活を始めたので、炊きたてのごはんも、みそしるも、おかずもありませんでした。
食パン食べろよ、と言われましたが、胃が重たいので、コーヒーだけ飲みました。母が死んでしまうと、朝ご飯が、準備されていない、というのが本当に大きく変わったところです。

真ん中の兄が、仕事にいく前にいつも、実家に寄ってくれるのですが、もうこれでしばらく会えないので、「いろいろありがとな、」と声をかけにきてくれました。僕は、特になにもしていないのですが、兄はふたりとも、ありがとう、と言ってくれるので、これからも弟らしく、がんばっていこうとおもいます。

兄の奥さんと、子供に声をかけて、父さんに駅まで送ってもらいました。
いままで何度も、駅まで送ってもらいましたが、駅につくと、初めて、車を降りてきて、
「またゆっくり帰ってこいよ」と声をかけられました。
「歩いてトレーニングしておいてね、あたたかくなったら、とりあえずハーフでもゴルフラウンドしよう」と声をかけました。生きる気力が湧いてくれるといいです。
切符を買うために、改札へ向かったあとも、僕の姿を追っていたような気がしました。
母には、何度も見送ってもらったけれど、父に駅で見送ってもらって、大丈夫かなぁと心配になりました。


母の病気になってから思ったことまとめ

とりとめのない、文章となってしまいましたが、読んでいただいた方がいましたら、ありがとうございました。

僕が、母が病気になってから、後悔のないように母と接していこう、と思ったわけですが、結局後悔したことは、3点です。

①母が死んでしまう瞬間、看取れなかった。最後に話がしたかった。ずっと死なないと思っていたので、「思い残すことはないのか、とか、人生のハイライトシーンとか、僕との思い出のシーンとか」死んでしまう前に、聞いてみたかった。

②なぜ最後看取れなかったかというと、病状をすべて把握している父とコミュニケーションをとっていなかったため。余命宣告の2年経過したあたりにちゃんと都度聞くべきだった。

③遺影の写真が解像度不足でぼんやりしてしまったので、家族写真を撮っておくべきだった。


66歳で亡くなってしまい、やっぱり70代後半までは生きてもらいたかった、と思います。もっと医療の知識をつけて、膵臓癌検査してもらったりしておけばよかったとか、キリがないわけですが、次の法事は一周忌だと思いますので、まずは、そのときまでに、母の成果物である、僕が成長していられるようにがんばっていこうと思います。


次回からは、働いていて思ったことを書いていこうと思いますので、引き続きよろしくお願いします^^お気軽にコメントなどいただけると嬉しいです。ツイッターもやっております。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?