分かったって何をもっていっているのだろう。同性婚について感じること
数学で解法が思いついた時、分かったと言う
これはわかりやすい
自分がアウェイと感じた時、分かったと言う
これがわかりにくい
これを感じたのは、同性婚について調べているときだ
感じる→分かった、は非常にわかりづらい。
感じるというものは不定形だからだ。
そういうものを見ていたらそういう思考になる、と私は思う。
それが間違っていると感じて変えて抑えて結果的に「普通」になるわけだ。
同性婚に関して、私は現在正直どっちでもいいと思っている。
私は別に同性愛者ではないし、正直言ってどうでもいい。
最近そんな気がした。
きっかけは、同性婚賛成の人々の意見を聞いたことだと、そう私は考えている。
政治批判と使ってみたり、老害批判と使ってみたり、使い方はさまざまだ。
ただ別に、同性婚に反対している人たちは、そういう文化圏に生きている以上真っ当な反応であり、また個人の意見でしかない。
そもそも、いきなり賛成反対に分けられさせられて、考えたことない同性愛を考えさせるのもなかなかに大変だと思う。
多くの人が、分かってないんだろうと思う。
同性愛なんてしてみないと分からないし、どうして同性愛が拒否されるのか学ばないと分からないし。
私だって分からない。
私はいわゆるノーマルで、友達がカミングアウトしたら受け止められるか分からない。なぜなら経験したことがないから。まあ気分次第だと思う。
そう気分次第なのだろう。
古典的印象付けのようにして相手に男色を覚えさすことだってできるのではなかろうか。
結局何をもって分かったと言うかは分からない。
ただ分かるを分かるためには、知識や理解が足りないのではないか。
そう考えてたら気づいたのだ。この話どうでもいいな、と
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